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タイトルに興味があって書店で偶然買ったが、タイトル通り単なる談合肯定論ではなく、むしろ文化論としても優れている。著者はもちろんプロの談合屋だったが、それを日本社会のありようまで研究している点が興味深い。私自身が子供の頃田舎の緊密な共同体に悩まされたから実感は強い。私の実家は調べると戦国時代に主君が敗れて帰農して土着したのだった。
そのため近隣は同姓の親戚ばかりで、その本家だったから気の弱い小生は強いプレッシャーを感じていた。冠婚葬祭のあらゆる付き合いは血縁の内輪だけで行われていたものだった。落人に近かっのであろう。同じ大字でも、他の地区の人たちの付き合いはなかった。地方議会の選挙があると、夜は我が家に血縁の近所の家長さんが集まり、飲めや歌えやのどんちゃん騒ぎ。そこに、議員候補さんが来て、一升瓶と何やらを置いて帰っていく。そんな村社会も、今はすっかり消えた。昔からの村の自治の残滓を強く知っていたから、私には著者の言う「ムラの自治」の意味を体感できる。現代日本人で、ムラの自治を体感したことのあるものは、どれほどいようか。
閑話休題、著者はムラの自治を基層として、建設業界の自治としての談合が発生したのだと言う。それが戦時中の統制経済による上からの談合、政官財癒着としての談合に変化するに従って歪みを生じているのだと言う。現在の建設業は独占禁止法の強化により、談合が排除された結果、自由競争により地方の建設業は大手ゼネコンに負けて悲惨な状況になっている。
その癖、大手ゼネコンは政治家の集金組織として談合が続けられているのだと言う。そう言えば以前は摘発される談合と言えば、地方の中小業者によるものだったが、平成5年頃に摘発されたゼネコン汚職以来、最近のリニア新幹線談合等は、大手ゼネコンばかり摘発されている。昔知人の父が実は談合屋だった、と言う話を聞いた。もちろん故人である。
ゼネコンに入っていつの間にか見込まれて、談合屋にされたのだが、付き合うのは社内の人間ではなく、社外の談合屋同士だった。談合社会に慣れたとき、会社で言われたのは、警察に引っ張られて本当の事を言いたくなったら窓から飛び降りろ、残った家族は一生面倒を見るから、というものだったそうである。血の結束があるからかつては談合がばれなかったのである。
なぜ談合が内部告発等によってばれるようになったのか。著者の説を敷衍して言えば、ムラの自治の延長としての談合ならば、生きる世界はそこにしかないから、命を賭ける価値はあったのだが、政官財の癒着に利用されているだけのものならば、命を賭ける価値は無いからなのだろう、と私には思える。ムラの結束とはそれほど強いのだ。
著者は良い談合と悪い談合に分けて、良い談合は復活せよ、と言う。ムラの自治の延長としての談合が良い談合で、悪い談合とは政官財の癒着に利用されているだけのものである。ある建設業界紙に、かの山本夏彦氏のインタビュー記事が載った事がある。山本氏は平然と、建設業に談合はあるんでしょ、いいじゃありませんか、と発言すると、インタビューアーは、そういう話はどうも、と逃げてしまった。
山本氏は談合肯定論者ではあったろうが、著者ほどに談合のあり方に深く突っ込んではいない。そこがこの本の価値である。談合は日本の風土である。もちろん建設業ばかりではなくあらゆる民間取引にもある。新聞業界だって談合している。新聞の価格、休刊日である。全国紙で唯一安い産経は夕刊がないのと、ページ数が少ないので安くてもよいと言う、談合仲間のお墨付きをもらっている。休刊日は他の社が休んでいる間に、抜けがけで売って儲けられると困るから談合して決めているのである。果たしてこの本、ムラ社会の経験のない者に理解できるものか、と私は思うものである。