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副題:中華秩序の本質を知れば「歴史の法則」がわかる
さすが総合的には的確であると思うが、違和感のあるところなしとはしない。中華世界で天子と認められる条件は、「・・・周辺の『化外の民』や野蛮国を服従させて『中華秩序』を打ち立てることである。(P60)」として隋が統一後、高句麗討伐に全力をあげた、という例をあげる。二代の皇帝が高句麗討伐に失敗した結果、天命に見放されたものとみなされ、崩壊したというのである。
また、毛沢東が朝鮮戦争を、小平がベトナム国境戦争を、ともに政権を握ってからすぐに行ったのも、この延長にあると言うのだが、隋の件に関しては異論がある。隋は明らかに「漢民族」と呼ばれる人たちとは異なる範疇の民族支配による王朝である。この論法だと、たとえ異民族であっても中華社会に入ると、中華社会の天命の論理に従う、ということになる。実際はそうではないのでないのか。隋にとっては危険な大勢力であった隣国は倒さねばならず、結局その征服に疲れて崩壊したのではないか。
清朝は満州族の王朝である。外部から北京に入って明を倒したが、モンゴルやチベットを支配したのは、天命の論理ではなく、各々の民族の長を兼ねるというソフトな方法で支配した。隋とはケースが違うのである。元もまた違うパターンである。ヨーロッパにまで侵入する大帝国を作ったが、モンゴル本土においては、モンゴルの論理で動いたのであって、天命の論理ではなかった。
なるほど、毛やは石氏の言うことが適用されるのかもしれない。だが、中華世界を支配した全ての民族に適用されるのではなく、「漢民族」と呼ばれる範囲の民族に限定されるのではなかろうか。つまりドイツやフランスなどと民族は異なっていても、「西欧人」、という共通項はあるのと同様に、「漢民族」と言う共通項はあるのである。
似た違和感を「四十数年後、アジアに生まれた『日本版の中華秩序』(P92)」という話にも感じる。日本が清国を崩壊させたのも、満洲国を建国したのも、西欧の圧迫というやむにやまれぬ必要からであって、天命の論理ではない。日本の危機感はロシアや英米に向けられていたのであって、支那に向けられていたのではない。ここで石氏は自己の結論を拡大解釈し過ぎているように思われる。
日米戦争では、米国が中国にほとんど利権を持たないのに、対日戦を始めて多くの犠牲を払ったのは、「すべての国々は大小問わず平等な権利がある」、というアメリカの正義に従ったものだ、という(P110)のだが承服できない。その証拠がハルノートであると言うに至っては尚更である。石氏がハルノートの原則として示している、一切の国家の領土保全云々、といういわゆる普遍的正義は、一方では本気であると同時に、アメリカ得意の本音を綺麗な言辞で包むやり方である。
日本国憲法が、日本だけが侵略国家で他国は侵略しないから、日本さえ軍備がなければいいのだ、ということを言うのに「・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」という一見美しい言葉を並べるのが、米国流である。この米国流の美辞麗句を、護憲主義者は額面通り信じて真意を知ろうともしないからいるから恐ろしい。石氏ほどの碩学が、満洲事変よりかなり前から、日本が有色人種唯一のまともな主権国家であることに、米国が悪意を抱いていたことを知らないのであろうか。アメリカは常にダブルスタンダードで動く国である。
「『民族の偉大なる復興』を掲げて登場した習政権(P156)」というのは、その通りなのだろう。かつての中華帝国によるアジアの秩序の再建をめざす、というのがその中身である。そして「アジア安全保障会議で発揮された安倍外交の真骨頂(P199)」というのは、石氏が中国に抱く危機感と、それに対抗できるものとしての安倍内閣に対する大きな期待を示している。だがまたしても「戦前の『大東亜共栄圏』を復活させるような野望を抱いてはならないのだ。(P213)」というのは大きな誤解である。
なるほど戦前の一部の日本人には、国力への過信から放漫になっていた者もいる。しかし、全体的に見れば例外であるし、英米の方が過去も現在も、遥かに放漫であり続けている。中国共産党政権に至っては桁違いに放漫である。大東亜共栄圏とは、日本の弱い国力を何とかするために必死でとった政策を、大袈裟な言葉で表現したもので、実質は実に地味で防衛的なものであった。日本軍が精神主義だと批判されるのは、武器弾薬の質と量の重要性を無知により無視したのではなく、日本の工業力と経済力が、戦争に絶対必要なこれらを満足できないことを熟知した、絶望の果てに生じた結果によるものである。
本書で全般的に感じるのは、石氏の米国に対する信頼が強い、ということである。例えば「・・・他国を抑制するような中華秩序と、アメリカが『警察官』となって共通した法的ルールを守る秩序とでは、天と地ほどの差がある。海洋の問題に関しても、アメリカが提唱する『航海の自由を守る法的秩序』は誰の目からみても、覇権主義的な中華秩序よりもはるかに公正で正義に適ったものだ。(P194)」というのが、その典型である。
むろん中華秩序は論外である。石氏がアメリカについて説明していることも、一面では真実である。しかし、米国は中東政策だけを見ても、明らかなダブルスタンダードを犯しているし、謀略も敢えてする。それは国益、という観点からは当然なことである。だから米国の多面性を一方で理解しながら、同盟するなりの関係を持たなければならないのも当然である。
長年私淑されているという、中西輝政名誉教授にしても、米国に対しても冷徹な目で見ているはずであって全面的に米国に依拠すべきだと考えてはいない。明晰な石氏がそのことを理解していないとは到底思われない。前記のような米国の正義論を述べるのも、中国の最近の覇権主義的な活動が、あまりに危険な水準を超えているための、焦燥感の現れだと小生は考える。