毎日のできごとの反省

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GHQ焚書図書開封6・西尾幹二

2013-09-02 16:11:28 | GHQ

 このシリーズは眼を開かれる記述が多い。本書の要旨は一言で言えば、戦前の米国の戦争のターゲットはドイツなどではなく、日本であった、ということであろう。小生も平成24年に真珠湾攻撃以前のアメリカの日本本土爆撃計画を知り、それを検討していくうちに米国は対独参戦とは関係なく対日戦争を計画していたと確信するようになったから、本書はその考えを深めてくれた。なお焚書の引用は旧かなはそのままに、漢字だけ当用漢字に改めた。

 焚書の引用で「・・・米国海軍当局の計画せる即戦即決戦法に狂ひが生じて・・・。・・・日米開戦となっても無条件にイギリスが参戦するとは考えられていなかった。・・・それに欧州政局よりもアジアのほうがきな臭い。(P108)」という。これは昭和7年の出版である。この時点で既にヨーロッパよりも日米戦争の可能性が高く、しかも米国単独でも戦争をすると考えられていたのである。満洲事変直後で、支那事変はまだ起きてはいなかった。それでも短期決戦を考えていたとすれば、昭和16年の時点では長期化する支那事変で日本が弱体化していたと判断でき、対日戦は短期で犠牲も少なく容易に勝てると考えていたのであろう。P300にも、「日本疲弊せりと盲断」という項目を紹介している。

 しかも昭和五年のロンドン条約の効果が残り、無条約時代になっても有利であった昭和16年の時点というのは米国自身が有利であったと判断していたとしても不思議ではない。海軍軍縮に固執したところから、日本の脅威は海軍であったと米国は判断していたのに違いない。事実、米海軍軍人で東郷元帥を尊敬していた人は多いが、米陸軍では乃木大将については案外知られていない。

 米国の日本人差別のついでに、黒人差別について語る。「アメリカで黒人の参政権が認められたのは東京オリンピックよりあとなんですよ。一九六五年です。しかも、投票に際しては『文盲テスト』がありましたから、多くの黒人はこれで弾かれた。実質的な選挙権は長い間無かったにも等しいともいわれています。文盲テストが廃止されたのは一九七〇年、発効されたのは翌七一年・・・」(P119)現在でも黒人差別はある。黒人のスポーツ選手の差別は減りつつあるが、米国で有力選手が未だに出ないものがある。水泳である。黒人が参加するとたちまち白人を駆逐する場合が多い。

陸上競技はその最たるものである。水泳も参加すればそうなるであろう。だがアメリカの白人は黒人と一緒の水に入るのを病的に嫌うのである。以前紹介したように「ダイバー」という映画に軍艦では週に一度だけ黒人が海で泳いでよい日が決められていることが紹介されている。だが白人は一緒に泳がない。これは病的である。P186には、無実の黒人を有罪と勝手に決め付けた白人群衆が、橋から吊るして殺す場面が紹介されている。西尾氏はアメリカ南部ではこのようなリンチは普通に行われていたと言う。アメリカでの黒人差別というのは差別という言葉はあまりに誤魔化しが過ぎるように思われるほどの非人間的なものである。

 アメリカ世論は戦争に反対であったと西尾氏も考えているが、これには賛成しかねる。「『ハル・ノート』という最後通牒を突きつられたとき日本は悠然と構えていたらよかったのに、ということもいえそうです。ルーズベルトが日本を威嚇して戦争をしたかったのは確かですが、・・・ルーズベルトの後ろにはアメリカ議会があるし、戦争はイヤだというアメリカ世論もあったわけですから、こちら側が「議会に訴えかける」という手を打てばよかったのではないか・・・」(P142)というのである。

 ハルノートをアメリカ議会にバラセバよかったという意見は案外あり、西尾氏もその陥穽に嵌ったように思われる。米国が武器貸与法や物資輸送の船舶護衛により公然と英ソを軍事支援したり、Uボートを攻撃しても世論も議会も多数が支持した。法律は議会が成立させるのである。日本本土爆撃計画は有名マスコミで公表されたのに議会も世論もブーイングの声はなかった。米政府の公式見解では経済制裁は戦争の一環であると以前から言われていたのに、政府は対日経済制裁を実施した。P227には、一九四〇年に米国が英国の肩代わりをして、ドイツに奪われないようにアイスランドを保障占領するという軍事行動を公然と取っていることを紹介している。どう考えても戦争を企画していたのはルースベルト政府だけで国民やマスコミは戦争絶対反対であったとは考えられない。戦争反対は国民にとって建前のスローガンに過ぎなかった。第一次大戦の惨禍を受けたのはヨーロッパであって米国ではない。米国は利益だけを得たのである。

 西尾氏の民主主義の定義はユニークであるが、妥当であろう。「・・・民主主義というものは、観念でも理念でもない。外国にモデルがあるという類のものでもない。独裁ではないそれぞれの民族の暮らし方-それが民主主義です。・・・老中民主主義・・・守護大名民主主義・・・日本は中国とちがって昔から専制独裁には縁遠い民主主義国家だったのです。とすれば、アメリカのデモクラシーというのはアメリカ型民主主義にすぎないわけです。・・・民主主義を至上のもののように考えるのも間違いです。(P182)」まあその通りである。

 「イギリスを助けるというのは名目で、じつはイギリスがもっていた遺産-領土にしても、権益にしても、貿易にしても、それを奪い取ろうという意図があるのではないか」(P229)ということを「英米包囲陣と日本の進路」という焚書から読み取っている。西尾氏が書く通り当時の日本人は日本の国際的位置を知らずにいたのではなく、現在の日本人より遥かに正確に知っていたのである。やはり日本人は戦後盲目にさせられたのである。

 今日の日本では大東亜会議を侵略を糊塗するものとして評価しない向きがあるが、その対照として評価されている太西洋憲章の方がインチキである。大西洋憲章のインチキを前掲書はきちんと語っている。また支那事変に対するチャーチルの日本軍批難演説の前夜に英印軍がイランに侵攻し「少数民族の保護」の美名で糊塗している(P248)。米英はタイを軍事力と在米英資産凍結の脅迫で、対日経済制裁に加わるようにさせた(P268)。欧米のやったことは正義で、同じことを小規模でしても日本は侵略と非難される理不尽が多数紹介されている。

 確認できないことがある。「日米開戦の日は以来、十二月七日ではなく、十一月二十六日であるというのが時の日本政府の見解です。日本側も最終覚書(帝国政府対米通牒)を同日にハル長官に手渡しています。(P290)」というのだが、日本政府の見解も対米通牒もこれから調べてみたい。これが事実なら、最後通牒の遅れと騙し打ちなどは問題にならない。軍事的奇襲攻撃などは戦術的には当然のことである。