どんなに素晴らしい史実も時代の中に置き去りにされていく。
ほんの10年でも。。
「海難1890」を観て、ある事実も忘れてはいけないと思った。。
◆日本とトルコ友好125周年記念映画「海難1890」◆
1890年
遠路はるばるトルコ軍人600名が、
老朽化したエルツゥールル号で日本にやってきた。
明治天皇に拝謁、友好のしるしを献上。
帰国の途に向かう途中、和歌山県沖で台風に遭い遭難。
600名の軍人のうち、
生き残った60数、そして多くの遺体が岸壁に打ち上げられた。
打ち上げられた場所は、食べる物すらもその日暮らしの村。
唯一、海へ漁に出ることが、彼らの命綱。
だが彼らは海で漁をする者の掟として、
海で溺れた者を見捨てなかった。
大怪我をしたトルコ人たちを、荒れ狂う海から命懸けで救出。
回復するまで、村人総出でトルコ人たちの世話をする。
その甲斐あって、
彼らはドイツ軍艦で故郷トルコへようやく帰還出来た。
そして95年後の1985年
1980年からの<イラン・イラク戦争>の泥沼化。
イランのテヘランの民間居住区域をイラク空軍機が爆撃し始めた。
3月17イラク大統領サッダーム・フセインの無差別攻撃発令。
「イラン上空の全ての航空機を無差別に攻撃する、、
無差別攻撃まで48時間の猶予を与える」
直ちに、国外退去をする在留トルコ人と在留日本人家族。
もうすでに、
爆撃は民間居住区域にも投下され大パニックのテヘラン。
日本からの救援機は出せないという政府見解に、
在留日本人300人は絶体絶命の状況。
イランの日本大使館の要請に、
トルコだけが救援機を2機出すことを承諾。
戦火をくぐり抜け、2機のトルコ航空機がテヘラン空港にやってくる。
空港に押し寄せた多くのトルコ人はトルコ大使の説得で
危険な陸路でトルコに帰る事を決断する。
トルコの人々の命を賭けた決断のお蔭で、
日本人家族300人は全員トルコ航空機でテヘランを脱出した。
遠い中東で、全てを破壊し尽くす戦争だった。
他国には分からない因果で、続く殺し合い。
そして1985年の5年後、1990年在留日本人の人質が起きる。
交渉相手はあのフセイン大統領。
日本の誰一人たりとも動かせなかった事態を突破した人がいた。
1989年にスポーツ平和党で参議院に当選。
議員歴一年のアントニオ猪木氏だった。
故宮沢喜一氏が驚いたと云われる伝説が次々起きたのだった。。。。
続く
人気ブログランキングへ←参加してます。応援クリックを押して戴けると励みになります♪読んでくれてありがとう<(_ _)>