人間とは、習慣と思い込みの動物である。
人間は習慣で刷り込みされる。例えば、「恥ずかしい。]です。
これも、根拠の無い常識の一つですね。
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あちこちが破けた洋服を着て、汚れた洋服を着て、人前に出る事は恥ずかしい? 何故?
回りの人々に、そのような人物が見当たらないから?
だらしなさ、や貧乏、自分の金儲けの才能の無さを、他人に見透かされる?だから恥ずかしい?
いいじゃないか。何故?回りの評価を気にするのだろうか?
人間なんて、しょせん泡と同じ。生まれては消え、生まれては消え、、、、「自分も泡ですからね」
まして、この泡が、金儲けが上手か?下手か?
何かが?ほんの少しだけ、他人よりも上手に出来る人物を過大評価する。
そのような評価の基準しか持ち合わせていない、泡達の評価に一喜一憂する必要などないでしょう。
このような、泡の評価を気にする必要は無い事に気付けば、恥ずかしい感情に意味の無い事が理解できます。
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信じられないでしょうが、昔の私の田舎では、幼稚園位までの小さな子供のほとんどが、
洋服の腕の袖口が、鼻クソで、カピカピでした。
回りにこのような、子供達が大勢いたからです。
時間が過ぎ、回りに誰もいなくなっただけで、いつの間にか?恥ずかしいと思うようになったのですね
このような事は、多数決が、ただ一つの正義だ、多数決の正義を守らない者は悪だ、などの誤った基礎知識を身に付けているからですね。
多数決が間違いだ、とは言いませんが、多数決に疑問を持って考えてみてください。
少数や、奇抜な意見も又、正しい意見である事に気付くでしょう。
そして、正反対の意見も又、正しい事に気付くことでしょう。
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地動説が天動説に変わった事。を思い出して、常に常識を疑う訓練をする事です。
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話は変わりますが、私は親の残した広い畑の草刈りに悩んでいました。
朝から、一生懸命に草刈り機で刈って、4日位かかります。これが毎月、毎月、延々と続くのです。
私はナマケ者ですから、農業はしていません。それでも、この草刈りだけは仕方なく毎月、嫌々ながらやっていました。
ところが、ある日、突然に気付いたのです。閃いたのです。幸運の思考を手に入れたのです。
勘違いの思い込みが、自分を苦しめている事に気付いたのです。
あれ程に嫌だった、草刈りが、突然に、楽しくなったのです。
答えは簡単です。
草刈りは、私の権利であることに気付いたのです。
この畑を誰かが、勝手に、植物を植えたり、草刈りをする事は出来ないのです。
私の許可なくしては、草刈りをしたくても、草刈りは出来ないのです。
私だけが、この畑の草刈りの権利を持っている事に気付いたら、急に、この畑の草刈りが楽しくなったのです。
部屋の掃除もそうです。私の部屋を掃除できる権利は私しかいないのです。私の権利なのです。
ですから、今は、権利を行使して、誰にもやらせてあげない。のです。
誰にもやらせてあげなくて、自分で草刈りと、部屋の掃除を楽しみでやっているのです。
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病気などの、健康上の都合で、やりたくても出来ない人々の大勢いる事に気付いたのです。
私は、健康で、草刈りや、部屋の掃除などを出来ることに気付いたのです。
出来る事の有り難さに気付いたのです。
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やらなければならない、ではなく、やれることの喜びに気付いたのです。
これが、発想の転換の一例です。
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では、今日は、この辺で。。
ごきげんよう。。
逆転地蔵
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