曹達記

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ポケスペ剣盾編総括感想1-テーマと全体的なストーリーの総論

2023-08-21 08:22:00 | ポケスペ
「ポケットモンスターSPECIAL ソード・シールド」(以下ポケスペ剣盾編)は、2023年7月28日発売の単行本7巻で一旦完結した。

本作に携わった全ての方に、まず感謝とお礼を申し上げたい。
特に一度体調不良で休載された日下先生においては、十分な休養を取っていただきたい。通巻版の作業は少なくとも4年以上かかると推測できるので、SV編の連載と並行になるが、是非とも成し遂げてほしい。そのためには体力が必要になるであろう。作家業は不健康な生活が普通になってしまうが、健康が第一の資本であってほしい。

さて、山本先生がTwitterで明かしたように、本章はあくまで一旦連載が終わっただけで、載せられなかったエピソードが多数存在している。
そういう意味では完結したわけではない。
なので、いわば未完成の作品について総括として論評を加えるのは、いささか性急にすぎると思う方もいると推察する。
しかし現段階で自分がどう考えているかをまとめる作業も、また必要なものであろう。
本稿はその必要性に基づいて記すものである。

ポケスペ剣盾編の総括をするにあたり、自分は「ストーリー」「キャラクター」「バトル」の3点から解析をしていくことにした。
特にバトルの項は、これまでのポケスペのバトルとの比較分析を多用していくので、非常に長く、かつ手厳しい指摘が多くなる。あらかじめご了承いただきたい。

また今回は個別の解析が長くなることを考慮し、記事を三分割してお届けする。
本記事では「ストーリー」についての論考を進めていきたい。


全体的なテーマによる演繹的解釈

剣盾編のテーマが「居場所」であるということは、連載終了後山本先生のTwitterにて明かされた。
まずはこのテーマにより、ストーリーに散りばめられたものを見ていきたい。

剣盾編全体のストーリーとしては、図鑑所有者二人のジムチャレンジをめぐる思惑に、ムゲンダイナの復活による危機が絡んでいくというもの。
これだけ見ると、あまり居場所というテーマがあるようには思えないのだが、一旦テーマに沿って各要素を見ていきたい。

まず主要キャラに目を向けると、図鑑所有者達とマナブにはそれぞれ、居場所がないという共通点がある。
そーちゃんには父親がおらず、しーちゃんも家族から周囲の同年代から(指摘があったので修正)疎まれていて、マナブは学校に居場所がない。
そんな彼らの居場所は根無し草のキャンピングトレーラーであり、こうして見ると要素として大きなものであることが最初から示されていた。
さらに、身具の鍛練にのみ興味があり周囲の人間の気持ちはお構い無しというそーちゃんの気質は、社会にあまり適合しているとはいえない。しーちゃんも、いかなるときでも声がやたらでかくなってしまう部分があり、これも社会から疎まれかねない要素だ。二人を繋ぐ共通項は、「社会に居場所が少ない」という部分であろう。

そこに、ガラル粒子を無尽蔵に産み出すがゆえにダイマックスをところ構わず起こしてしまうムゲンダイナが、社会を破壊する存在として立ち塞がる。
社会不適合な要素を強く持つ二人vs社会の破壊者という構図は、11章のラクツ・ファイツvsアクロマ・ゲーチスの構図に近い。
戦って逮捕することによって勝利した11章と異なり、剣盾編では確かにムゲンダイナを倒すことで解決はしたものの、ムゲンダイナが生きていける社会を作るべきではないか?という救いの手をさしのべることもしている。
これを製作陣の思想の変化ととれるかは微妙だが、しーちゃんが自分と同じようなあぶれ者への同情からそのような結論に達した、というだけでもなかろう。
ムゲンダイナのガラル粒子が社会のインフラとなっているから、という人にとって都合の良い部分も間違いなくあるといえる。
いずれにせよ、答えは11章からすこし違う方向に着地した。

この構図を描く上で少し惜しいなと思うのが、図鑑所有者たちに社会を疎ましく思う気持ちが少しはあっても良かったのではないかという点。
無論子供が主要読者なので、社会への疎ましさを覚える主人公はやや踏み込みすぎな面もあるかもしれないが、以前には引きこもりで交流の一切を疎ましく思うエックスという例もあったのである。
一応、そーちゃんは「本当はやりたくないジムチャレンジをやっていた」という蟠り、しーちゃんは「発言すると大概の人が耳を塞いでしまう」という周囲への迷惑があったので、社会とのずれはさりげなく描かれてはいた。
ただ、「ジムチャレンジによってしか立身出世が望めない息苦しさ」がもう少し明確に描かれていれば、対立の構図がより鮮明になったのかなと思う。

ここでどこからそのテーマを見いだしたのかと考えてみると、原作のソニアに由来すると思われる。
原作のソニアは、登場当初は学者として中途半端な業績しか挙げられず、かといってトレーナーとしては一流の域に到底なっていない。
そんな事情から、祖母であるマグノリアからも師匠として厳しく言われており、家庭でも仕事でも居場所がない状態であった。
原作はそんなソニアが学者として一人立ちし居場所を見いだす話でもあったので、ポケスペはそちらを重視して居場所をテーマにしたのではなかろうか?

必然的に、ソニアの存在はポケスペにおいて原作よりもウェイトが重くなる。
その反映として、彼女の過去の挫折が序盤~中盤での重要な謎として機能してきた。
ダンデが弟を推薦しなかったことや、ソニアがダンデと会うことを殊更に避ける理由がそこにあったため、その解明が話の転換を告げるタイミングとなった。
確かにこれは話のフックとして機能してきたので、目を引くものではあったが、ではテーマにどこまで響いているのかというと微妙な面がある。
ソニアが過去の挫折を告白した後、どこに居場所を見いだしたかについては言及が大きく減ってしまうからだ。

どちらかというと、居場所というテーマに則したサブキャラクターはビートだろう。
親なき子であるビートはローズによって居場所を与えられ、剥奪される。
しかしポプラの手助けでジムリーダーとなり、そーちゃんとの蟠りも解消し、ローズとの対話で彼の真意を知り和解する。自分の居場所を自分で確保する形でラストを迎えた。
原作ゲームからの要素とオリジナル展開のカンムリ雪原編をうまく交え、ビートについてはテーマに則した話をうまく展開できていたのではなかろうか。
というより、居場所というテーマで見るとビートの方が徹底的に描かれているように感じられる。
先述した通り、図鑑所有者とムゲンダイナの対立軸は少し分かりにくい。その点ビートは、居場所を剥奪されて新たに得た者であり、社会からは一度排除された者でありながら、社会秩序を破壊するムゲンダイナに抵抗することになる。
居場所を明確に見つけられたわけではないそーちゃんと比べても、自身の居場所を確立したビートの方が話としては一貫しているのである。


権力と居場所

さて、テーマに基づいた分析は主要キャラだけではなく、悪役にも向けられるべき目線である。
シーソーコンビはしーちゃんの手持ちからしーちゃんという居場所を奪った悪であるが、テーマという部分で見るには小者が過ぎる。
やはりテーマを以て見るべきはローズであろう。

ローズはガラルの実質的支配者として絶大な権力をもち、それだけに各人の居場所について万能の力を有する。
ガラルが住人にとって居場所であることは当然のことだが、ローズにはそれを守る責任もついて回る。
その責任と、ガラル粒子の枯渇が目の前に迫っているという事実が、かような強引な手段に走らせたと作中で示されており、居場所を守るための手法が居場所を破壊する悪事に繋がったという皮肉となる。
居場所を守り与える存在と破壊する存在が同一であるというのは、「権力」の二面性に他ならない。
そして権力の暴走に対し人々が立ち上がり阻止する、こう書くと革命のような文脈に見えてくる。
ただ、ポケスペは過激な方向でその文脈を進めてはおらず、あくまでローズは悪役ではなく権力者の失敗として描かれていて、逮捕されるだけで済んでいる。

権力の暴走という面で見てみると、12章との比較もまたできる。
12章はフレア団がカロスの支配層に食い込み、人口の間引きを行おうとするのを阻止する物語であり、二面性のある権力を「人の生活を破壊するものはフレア団という悪」として表層化している。
だからこそ、「カロスの権力=フレア団」という構図となり、フレア団を壊滅させることはできないというビターエンドとなる。
権力が人々の居場所を保障することのみで成立するのであれば、フレア団を切り離して倒せば終わりになるのであるが、権力の本質は暴力の独占(マックス・ウェーバー流に言うなれば、だが)であり、破壊する機能を持っていないと権力足りえない。そして権力がないと統治は機能しない。
この面をより分かりやすい形で示したのがポケスペにおけるローズであると自分は考える。

また、ローズは「ピカピカなガラルに耐えられないものの巣窟」であるスパイクタウンを滅ぼすつもりはなく、その点でもフラダリとは異なる存在であると強調されている。
だからこそ、フラダリと違って徹底的に破滅することはなく生き延びられたのだと思うし、完全な悪役とまでは行かなかったのであろう。


帰納的な分析

上の項では語られたテーマに従ってストーリーを見ていくという、演繹法の解釈を取った。
しかし、複数の人間が製作に絡む創作作品においてテーマが単一足り得るかといえば、そんなことはないと考える。
然らば、テーマを炙り出すには演繹法とは逆の方法ー帰納法により行うほかない。

もう一度剣盾編全体の縦軸を見返してみると、ローズはガラル粒子の枯渇を憂いてムゲンダイナを目覚めさせたが、シーソーコンビとの共謀は失敗に終わり、人々の協力によって事態は収拾される。
その中での記者対応で「誰か一人が英雄として解決をしたわけではない」と強調される。誤った理解をされないように。
失敗の本質はローズが「ガラル粒子の枯渇が近いことを公表せずに、人々との対話を行わずに善行をなせば良いと考えたから」であり、その気質はそーちゃんにもあると示されている。
更に、図鑑所有者二人の関係も、当初はそーちゃんがしーちゃんの意思を無視して強引なサポートをしていたが、それを終盤では否定しお互いにやりたいことを尊重するという方向へと変わった。お互いに話し合うことで関係が拗れることなく、円満な交遊関係を築いた。
前半の中核であったソニアとダンデの関係の拗れも、互いに話し合うことを放棄したこと、更にダンデの一挙手一投足がマスコミの注目にあることが原因で、対話をしづらい状況にあったからだ。
マスタードとそーちゃんの師弟関係は、ダクマとの交流を通じて何をダクマが望んでいるのかによって進展していく。変則的なコミュニケーションである。
バドレックスが信仰を失ったのも、村人との相互交流が不足していたことにあった。

こうして要素を拾ってみると、自分が剣盾編全体から受けた印象としては、「コミュニケーション」あるいは「対話」に重きが置かれているように思える。
特権階級との謀議に走り人々とのコミュニケーションに失敗したのがローズであり、内面を開いた対話に成功したのが図鑑所有者たちである。

そーちゃんの内面はともすれば悪人のそれ、過去の章で類似する人物を挙げればプルートに近い。すなわち、自分の興味ある事象に至るなら周囲の被害は考慮しないというところである。
ただ、それでも彼を悪へと踏み切らせないのは、周囲への外面だけは良くしようとする理性があるからでしかなかった。
外のコミュニケーションだけはうまくやれても、内面は他人に見せず、何となく好感触だけ与えるが真に心を開くことはない。
他人に関心がないため、一応善いことをするものの、本当に内面に立ち入ることはなく、なあなあな関係で終わらせてしまう。

対して、しーちゃんは他者に耳を塞がせる大声でしか喋ることができず、外のコミュニケーションに大きな問題がある。
しかし、内面は裏表なく率直な感情を出すため、落ち着いて話すことができさえすれば良好な関係を築くことができるのである。

このコミュニケーションの対称性を改めて問い直したのが、ヨロイ島における二人の真の対話である。さらにカンムリ雪原へそーちゃんが移動した後も、シャクヤによって彼の内面がきっちり言語化され、ローズと近いことが強調される。
しかしそんな彼であっても、目の前の状況に真摯に取り組みさえすれば善行を為すことができる。
しーちゃんとの対話を通して、自分の行為に対する赦しを得たことで、ようやく周囲に取り繕うことなく自分のしたいことができ、結果として事態の収拾につながる。

結局、人にとって善いことを為すためにはしっかりと内面を通した対話をして、その上で自分のやりたいことと折り合いをつけるのが重要であるということなのだろう。


剣盾編の縦軸に対する評価

居場所というテーマは確かに主要人物に一貫したものであるが、その観点で評価すると図鑑所有者が一歩下がった立場となり、ビートの方が主役に見える状態へと変わってしまう。
それはそれで話が見えやすくなって良いのだが、やはり図鑑所有者が話の主軸として存在できるものが、テーマとしてあるべきではないかと自分は考える。
なれば、図鑑所有者を軸として見たテーマは「コミュニケーション」であり、その観点からして「コミュニケーションはできても内面が危ういそーちゃん」「コミュニケーションが難しくても内面は善良なしーちゃん」と、「コミュニケーションを放棄し社会を危機に至らしめたローズ」「コミュニケーション不能なムゲンダイナ」という対立構図になる。

この対立構図が明確になるのは中盤以降だが、注意して読むと序盤からソニアとダンデの関係を通じて「なぜ対話しないのか?」という問いかけを投げ掛けているので、そこから発想もしやすいようになっている。
そしてコミュニケーションというテーマでフィルターをかけることにより、各キャラクターの導線や善悪の基準も見えてくると自分は考えている。
無論、ポケモンとの交流はどの章でも主軸にあたるものだし、自分が読み違えている可能性は十分にあるが。

さて、「居場所」「コミュニケーション」のどちらも縦軸としては最初から一貫して描かれている上に、あぶれ者への救済も示しているため、縦軸としての機能はしっかりしていたと総括しておきたい。

次は「キャラクターの個別分析」に入る。↓


記事をお読みいただきありがとうございました。
また、普段の発言についてはこちらのTwitterにて行っております。


よろしければご覧ください。


グリッドマンユニバース感想

2023-04-15 16:35:00 | 特撮
自分はアニメという媒体が割と苦手である。

その仔細については語らないが、思春期の時期から根付いてしまったこの感覚は外しようもなく、特撮に強く愛着をもつ気質と共に、創作物の見方に重大なバイアスをもたらしている。
だが、そんな自分でも珍しく1クールを完走したアニメがあった。
それが2018年に放送された「SSSS.GRIDMAN」(以下Sグリ)であった。

原作のグリッドマンについてはリアルタイムで見たことがなく、自分にとってのヒーローはウルトラマンティガが最初だったのだが、円谷プロが出したウルトラマン以外のヒーローとして記憶はされていた。
その続編をアニメで作るという試みに当初は懐疑的だったが、Twitterでの評判が非常によかったことから後追いで視聴していった。
すると、自分の先入観を一気にひっくり返されてしまった。「特撮をアニメでやる」というやり口に忠実なアプローチ、それでいて実写では不可能な「ゴテゴテした合体とキレのあるアクションの両立」に魅せられた。
さらにストーリーを通しての謎とどんでん返しに最後まで驚かされ、大いに楽しんだのであった。

しかしそれ以降はまたアニメを見たくない思いが強くなってしまい、2021年に放送された続編である「SSSS.DYNAZENON」(以下ダイナゼノン)については見送ってしまった。
こちらもTwitterでの評判がよかったにも関わらず、どうも食指が動かなかったのである。

そんな中、またグリッドマン関係のアニメをやるという。
更にダイナゼノンとのクロスオーバー映画らしい。
昔見た作品だし見に行ってみるのも悪くないな、でもダイナゼノン見てないし大丈夫なのかなと迷いつつも、やはりここでもTwitterでの評判を見て良さそうと判断し見に行くことにしたのであった。


結果、オールタイムベストにカウントするレベルの映画を目の当たりにしたのである。
「シン・ゴジラ」以来となる、同じ映画を複数回見に行った程度には、だ。4回は過去最多である。

以下、3作品のネタバレを全開で書いていきますのでご注意ください。






本作はどこを切り取っても語るべきポイントが大量にあるのだが、今回は3点で記述していきたい。
更に2回目を見る前にダイナゼノンをアマプラで全話視聴したので、それを踏まえた感想の部分も4点目として記載しておく。


映像面でのカッコよさ

まず本作は怪獣と巨大ヒーローが戦う作品である。
なので、街を破壊し爆発する描写がふんだんに盛り込まれている。
TVシリーズでは音響を意識することはなかったのだが、それが映画レベルの音響になることで一つ一つの爆発と車の吹っ飛びが強烈に耳に響く。

それだけではなく、TVシリーズ以上に巨大感とスピードを強調する構図がふんだんに取り入れられている。
例えばがっぷり4つに組み合うところで下から見上げる構図であるとか、ビルにジャンプで飛び乗って光線をかわすシーンであるとかである。
これにより実写では難しい巨大感とスピードの両立がされており、更に全合体であるローグカイゼルグリッドマンも高速で動きまくる。
ハイレベルな「特撮」映像をスクリーンで見ることは、率直に言って鳥肌が立つぐらい全身が沸き立った。

しかもこのハイレベルな戦闘は都合3回楽しめるし、戦い方は3回とも違うので飽きがこない。
この点は本当に映画館でないと体感できないところなので、これだけでも本作を映画館で見る意義はあると言いきれる。
更にラストの戦闘シーンは、主題歌の使い方が完璧と評せざるを得ない。
ピンチにダイナゼノンが現れる瞬間、静かな歌い出しが盛り上がるダイナゼノン主題歌の「インパーフェクト」が流れ、グリッドマンと合体するタイミングでSグリ主題歌の「UNION」に切り替わり、最後のとどめのタイミングで「uni-verse」がかかる、この一連の流れと合体変形が組み合わさるのである。
しつこいようだがこれは完璧な演出で、映画館で見ることの意義を大いに感じるものである。


キャラの「その後」の感動

ここからはストーリー面でのネタバレを書いていく。
キャラ面から見てみると、本作はSグリの世界にダイナゼノンの登場人物が絡んでくる形のクロスオーバーである。

ここでポイントになるのは、主人公である響裕太はSグリにおける戦いを全く覚えていないということ。
そのため、Sグリ視聴者としても未知の領域であった「響裕太本人の人格がいかなるものであるのか」を本作で知ることとなり、話が見えやすくなる。
話の主軸も彼の告白をめぐる動きが中心となり、観客は彼に感情移入しながら見ていくこととなる。
そして、彼自身の感受性豊かで女性に対してウブな部分と、対照的に危機とあらば自身を捨てることも厭わないまっすぐなヒーロー気質が明らかになっていく。
それこそが作品全体を貫く清涼感として機能し、日常パートでは学園祭に向けた準備に右往左往する様やダイナゼノン組との絡み、本題である告白を巡っててんやわんやする様が微笑ましく見える。
更に危機が迫れば我が身を省みず真っ先に駆け出す様は率直にカッコいいし、応援したくなるものだ。

一方の六花と内海はというと、こちらは当然ながらTVシリーズの延長線上でキャラが構築される。どちらも違和感なく好感を覚える描き方だ。
六花はSグリの冒頭「何か」があって記憶喪失の裕太と一緒にいたこと、そして裕太が彼女に想いを寄せていたのが解決の発端であったと最終話で知ったことから、彼に対して憎からず思っているはずなのだが、今一つ踏み切れない裕太に対してどう考えているのか序盤は読めない。
しかし学園祭の準備を一緒に進めていくのと並行して、再び戦いに巻き込まれた裕太のことを気にかける描写が増えていくと、本心ではもうとっくに答えは出ていて、彼の行動待ちであることが読み取れるようになる。
極め付きは、グリッドマンと一体化すれば世界を救える代わりに確実に自我が喪失すると宣告された裕太が、迷わず一体化を選んだ下りでの「少しは迷ったりしろよ…」である。
アニメでは初めての名前呼びに続いてのこの一言で、戦いに行くのを止めたくはないけど少しは側にいる自分のことを考えてほしい、という複雑な乙女心が如実に出ている。
ここまでお似合いの台詞を言ってしまっては、後輩二人にまだ付き合ってないことを弄られるのもやむなしだと個人的には感じた。
最後のシーンはそんな二人のいじらしさが前面に出ていて、壮大な話の締め括りとしてミクロで幸せな〆に入る作りをキャラの力で最大限に活かしている。

内海については、Sグリにおいてのウルトラシリーズヲタ要素だけではなく、何かしらの人生経験を積んだかのように見える。
明言はされてないが、同級生の女子と二人きりでバッティングセンターに行くのは、もはやそういうことなのだと思う。
自分が役に立ってないことを悩んでいた頃と比べると、ノリの良さは変わらずに裕太と友達でいることが自分の役割だと割り切ったことで、非常に頼りになる雰囲気が出ている。

更に本作最大のサプライズと言える、新条アカネとアレクシス・ケリヴの復活。
Sグリの出来事を経て、アカネが自分のためではなく友のために超越した力を使う展開は、こちらも成長を実感できて非常に良かった。
敢えて六花と話さずにただ触れて元の世界に帰るのも、Sグリ最終回を損なわない出し方で良い。
アレクシス・ケリヴは相変わらず退屈をもて余して楽しんでただけだったのかもしれないが、大ピンチでアカネを分離して自分はマッドオリジンもろとも死を迎えるという行動は、Sグリ本編での悪辣さからしたら心境の変化があったのかもしれない。
おそらく自分が創造力を利用して力にするのは良くても、自分と関係ないマッドオリジンに食われるのは忍びないと考えたのかもしれないが、シンプルに熱い展開なので些末な問題か。

ダイナゼノン組については初見時は未視聴だったため、後の項目に譲ることとする。
しかし彼らの言動の裏側に何があるのか分からなくても、話を止めるような方向性で関わるものではないし、主軸を書き消すような存在ではない。
個人的にはダイナゼノンを見なくても、十分楽しめる領域にあると思う。ただ見た方がより強烈に楽しめるとも考えている。


メタフィクションと創造力

原点である「電光超人グリッドマン」は、グリッドマンという名と姿を与えた善のクリエイターである主人公組と、怪獣をコンピューターワールドに送り込む悪のクリエイターである武史の戦いであった。
どちらもモノをコンピューター上で作るクリエイターが、お互いの創造力で戦力を拡充し戦いを繰り広げる構図である。
特に武史については、日常の些細な不満が怪獣を産み出す情動になっていることが強く描かれ、情動と創造力の関連性が話のきっかけとなっている。

創造と情動が話の主軸になっている点はSグリにも受け継がれ、創造力をアレクシス・ケリヴにつけこまれた新条アカネは情動の赴くままに怪獣での殺戮を繰り返しつつも、度重なる敗北と罪を突きつけられたことで心が折れ創ることができなくなる。
もはや創造力がなくなったアカネは自らの情動を養分とした怪獣にされてしまうが、被造物である六花たちに救われることで決着する。
ダイナゼノンでも、人々の情動が怪獣の種と結び付いて怪獣を形成するという舞台設定があるため、ここでも情動と創造力が関係している。

そして本作では、日常パートのサブの軸として「かつての戦いを覚えている六花と内海がグリッドマンのことを演劇として伝えようとする」という、メタフィクション的な要素がある。
これはまさしく創造力に絡む話であり、最初の台本はSグリの物語をそのままなぞったものであった。
しかし、この台本は「新条アカネの存在が今一つ受け入れがたい」という理由でクラスメイトから否定されてしまう。
メタ的なSグリへの評価という面もあるのかもしれないが、作中の人間からしたら枠外の存在であるテーマを描くには六花と内海の理解が足りてないということなのかもしれない。

その後世界が入り交じるカオスの結果、ダイナゼノン組の要素が取り入れられて娯楽性が増したことで台本は評価を得るが、今度はキャラが増えた弊害でアカネ周りはオミットされてしまう。
六花が本当に描きたいことから離れている気がする、と感じる裕太の懸念はそのまま世界の混乱へと直結し、生と死の境目すら曖昧になる。
「カオスで因果関係がよく分からないけど、キャラがわちゃわちゃしてなんとなく楽しいから良いのか?」と視聴者が思い始めたタイミングで、この時間も生死も曖昧なカオス空間が形成されるため、裕太の「まだ告白できてない!」という焦りが改めて突きつけられるのだ。

ここで作品全体のどんでん返しとして、空想から世界を創造する力が人だけではなくグリッドマンにもあり、それがダイナゼノン世界を作ったことが示される。
更に裕太の六花に告白したいという情動が、世界のカオスに気づかせる大きなファクターであったとも分かるのである。
日常パートの軸が一気に本筋の戦いに加わる構成として、非常に巧みだ。
そして創造力を搾取する黒幕であるマッドオリジンにより、グリッドマンは宇宙そのものとして拡充され、作中に起きたカオスの要因となってしまう。
これを救い出すのが、グリッドマンユニバースの被造物であった蓬と、グリッドマンによって救われたアカネと、裕太だった。
裕太はグリッドマンの被造物ではないが、グリッドマンに「2ヶ月の時間を奪った負い目」という情動を抱かせた張本人だ。情動と創造力は密接に絡むので、それを解決することで問題も解決されていくのである。
Sグリで描かれた「被造物による造物主の救済」と「情動と創造力」の話が合わさり、ここで更に話のテンションを上げて進めていく作りは圧巻だ。

最終決戦では、改めてグリッドマンの創造力から再定義されたダイナゼノンやあらゆる味方が復活し、総力戦の末マッドオリジンを撃破する。
グリッドマンの負の情動によって産み出されたカオスに対し、皆のイメージから新たな姿が構築され、敵を撃ち破るのは原点回帰の側面もあって非常に文脈が強い。
皆の描いたグリッドマンは玉石混淆のクオリティであったが、全てが合わさることによって、単にグリッドマンから怪獣を作るだけのマッドオリジンを倒す力になる。
弱いグリッドマンも、皆の創造力があれば強大な敵を倒せる。
創造力で作られた怪獣を倒すのもまた、創造力であると再び高らかに謳われているのである。

最後、文化祭の演劇がどういうテーマで描かれたのかは不明だが、観客が笑って帰ったことは示されている。
娯楽性を強めるかテーマ性を重視するかの二項対立はあれど、楽しむことができればそれが作品にとって最上のことである、そのようなメッセージであろう。


ダイナゼノンを見たあとでの理解

先述した通り、1回目の視聴ではダイナゼノンを全く知らずに見たので、ダイナゼノン組のドラマはある程度は飲み込めたものの、やはり重みが若干減じていた面は否めない。
なので、2回目を見るまでの間にアマプラで一気に視聴しておいた。

ダイナゼノンは、巨大ヒーローものであったSグリと異なり、合体ロボットと怪獣の対決を主軸にしたヒューマンドラマである。
前作と比較するとSグリは全体を通した謎であるとか、世界観自体が一つの物語を引っ張る縦軸として機能していたのに対し、ダイナゼノンはヒューマンドラマとしての側面が縦軸として機能している。

これがとても重要で、Sグリが描いていなかった「合体時のドラマ」というものを主軸にしているのだ。
実際Sグリ初見時はあまり気にしてなかったのだが、グリッドマンが新世紀中学生が変身するアシストウェポンと合体する際、彼らとのドラマ性が全くない。
折角人格を持っているキャラと合体するのにである。
これは新世紀中学生がグリッドマンの一部で、そこに深掘りすべき要素がないことによるものだと後から分かるので、意味なくオミットしたわけではないのだが。

これに対し、日常生活で躓いている4人がガウマと共に戦って少しずつ協調性を得ていく、その過程として気持ちを合わせて合体するという筋書きはドラマを補強するものである。
戦いの結果としてガウマは再び死を迎えてしまうのだが、4人は何かしらの変化を得るという落としどころは、Sグリと逆にミクロなドラマとして一定の意義を得ていると言える。

さて、ダイナゼノン組の本作における動向は、TVシリーズで得たものを元にSグリ世界へと絡んでいく形になっている。
やはり大きなトピックは「TVシリーズで死んでしまったガウマとの再会」であろう。
特に蓬はガウマに色々と後押しされて様々な問題を乗り越えていった面があるので、死に際の会話すらできなかったことに大きな思い入れがあるのはダイナゼノンを見てよく分かった。
また、インスタンス・ドミネーションを蓬が行使する下りも、本編最終回で「不自由を守るために怪獣使いにならない」と選択した彼が友のために力を使うと決めたことの重み、選んだ不自由である夢芽への謝罪を込めつつ使った意義を深く理解することができた。

夢芽は先に映画でのテンション高い状態を見たので、ダイナゼノン1話でのキャラに戸惑ってしまった。
しかし1クールかけて彼女の内面の問題が解決されていく過程は丁寧で、その帰結として映画での言動に至ったことが分かった2回目は納得と微笑ましさを感じた。
ボイスドラマでは更に暴走が進行していたが、まあそれもあれだけ苦しんだことの反動として考えればおかしくはない、かもしれない。

暦とちせについては、ガウマを除いたダイナゼノン組で最初に映画に出てくる面子なので、初見時はよくキャラが掴めていなかった。
彼らは映画では少し脇役気味だったが、何が二人の後ろにあるのかを描き出したTV版を見ると、暦がまた無職に戻ったことが何とも言えない味になってきたり、ちせが完全に暦の保護者として振る舞っていることに成長を感じたりもした。

そして、カオスの結果としてもたらされたガウマと姫の再会。こちらも初見時では意味をよく飲み込めてなかった。
ガウマがなぜダイナゼノンを駆って戦うのか、という理由の根幹にあったのが姫その人である。
しかしTV版終盤で姫が後を追ったことを知り、もう会えないと悟りながらもガウマは皆の未来を守るために戦って力尽きた。
目的を失っても4人の未来を守るために戦った姿は結果を知っていても悲壮なものであり、だから再会させたのが監督としては野暮に思えたのも分からなくもない。
だが、それはそれとして必死に戦った彼に、カオスの結果としてではあるがこのような救いがあったのは良いことに思える。
単なるファンサービスではなく、既に生と死が曖昧な状態までカオスが進んでいると観客に示す、重要なシーンとして絡めてくるのがまた巧妙なところだ。
この時二人が語る「人として守るべき三つのこと」は、TV版では最後の一つが言えずじまいだったと後から知った。
それが「賞味期限」というのは少しフレーズとして変な感じを覚えたのだが、「賞味期限とはすなわち未来である」という考察を見たとき、とても合点がいった。
ガウマ隊とグリッドナイト同盟は怪獣から未来を守るために戦ったのだから。

もう一つ、アンチ改めナイトがダイナゼノンで何をしてきたかを知ってから見ると、最後の戦いとアカネとの会話にグッと来るものがある。
それはSグリ本編での言動から見ると、本当に長い長い間積み重ねられてきた「赦し」といえる。
造物主として街の破壊と殺戮を繰り返してきたアカネは、自らが憎んだ被造物であるアンチに助けられたにも関わらず、礼を言って別れられなかった。
そんなアンチはナイトとしてダイナゼノン世界を救ってきたが、アカネにご飯を食べさせてもらったことが心残りになっていたとガルニクス回で分かるのである。
そして映画の最後で再会した時、ナイトはアカネの罪を詰るよりも、産み出してくれたことの感謝を語る。アカネはそれに対して髪を触ることで礼を伝えるのだ。
Sグリ本編ではアカネから六花への感謝は伝えられたものの、アンチに対しては何か言う時間がなかったので仕方なかったのだが、このやり取りでアカネの罪の一端がようやく赦されたと感じた。
アカネがアンチにしたことはかなり酷いのだが、同時にアンチが生まれなければナイトとしてダイナゼノン世界を救うこともなかった。
彼女が犯した罪が消えてはいないのだが、彼女が作ったものは世界を越えて救済をもたらしたのである。
ナイトは決して、アカネの贖罪のために働いていたわけではない。
それでも造物主に否定された自らの存在意義を彼なりに考えて、ようやくアカネと向き合って感謝を言えたのだから、アカネにとっての赦しの一つとなったことには違いないだろう。


さて、ここまで長々と各方面からの語りを書いてきたが、正直書ききれないほどの多面的なファンサービスとメタフィクションへの言及と熱量で本作は構成されているので、見る度に新たな発見がなされる映画であると自分は思う。
公開規模が小さいのは唯一の難点だが、劇場で何度も見るだけの意義はあると繰り返し強調して、本稿の筆を置かせていただく。


記事をお読みいただきありがとうございました。
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年末のご挨拶

2022-12-31 20:23:38 | 日記
下期は丸々記事更新がストップしてすみませんでした。

原因としてはリアル事情がとても忙しくなったことで、これは来年まで続く予定です。
仕事が変わるわけではないですが、とかく人生の一大事が起きる予定なので、中々先が見通せない状態です。
ポケスペ剣盾編については毎月本誌購入を続けてますので、単行本が出た際にそれと比較しながら感想を書きたいと考えています。

ヨロイ島編突入後のポケスペについては、割と話の流れが安定するようになったと思いましたし、バトルもダイマックスを廃したことでスムーズに展開できています。
反面、カンムリ雪原側の描写がダイジェストになっているので、そこが通巻版で補足されるならより良くなるのかなと思います。

今年は初の映画感想もチャレンジしましたが、見返しができない映画の感想はかなり苦労しました。
あまり見る映画は多くないですが、今後も感想を書いていきたいです。

最後になりましたが、今年も弊ブログをお読みいただきありがとうございました。
来年もよろしくお願いいたします。

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2022年4~6月ポケスペ剣盾編簡易感想

2022-07-21 01:10:00 | ポケスペ
リアル事情の多忙により、またしても更新が長く空いてしまった。
読んだ直後の感想自体はちょくちょく書いてはいるのだが、まとめて書くことができていない。
単行本の発売も近いので、この3回分については短めの感想で済ませることにしたい。


4月掲載

↓当時の感想ツイート

ムゲンダイナが覚醒し、本気の姿を現した回。
もはやタイプ相性もないムゲンダイビーム連射により、次々とポケモンが倒され大ピンチに陥る一同だが、ザシアンとザマゼンタの介入で窮地を脱する。
ここで朽ちた剣と盾が事態打開の切り札となりうることが推察されるも、まさかのそーちゃんの離反で失敗。

この行動について、当時の感想では「闇堕ち」と評したのだが、後にムゲンダイナの毒の影響だったことが示唆されている。
とはいえ、「ジムチャレンジをやりたくなかった」という部分は本心だと思うし、それゆえに彼の内心がしばらく明かされてなかったのだろう。
しかし、そのためにジム戦の描写が等閑になったことはあまり良くなかったと思う。長期的な布石を置いておくことは重要だが、その場その場での盛り上がりもやらなければならない。
目的のためなら手段を選ばない主人公像は効いていただけに、心情の欠落を補って盛り上がりを出せる何かが欲しいところだった。


5月掲載

↓当時の感想ツイート

ザシアンとザマゼンタの攻撃でムゲンダイナが鎮静化したものの、戦っていてたジムリーダーはムゲンダイナの毒でリタイア、更にそーちゃんが行方不明になるという展開。

この回から、ようやくしーちゃんが主人公としての働きを見せるようになって良かったと思う反面、DLCの話をあと半年で済ませられるのか?という不安が出てしまった。
とりあえず話をダウンサイジングするよりも、広げる決断をしたことは尊重したい。
そのためには連載枠の拡張がなんとしてもなされなければならないのだが、編集部に仕事ができているイメージが全くないので、いい加減どうにかしてほしい。なんとも言いがたいが。

場面に注目すると、しーちゃんによるそーちゃんへの評価を語るシーン。
彼の極度な合理主義は確かに際立ってはいたが、やはり最初の印象が彼女には強かったのだろう。
ただ、それは彼女から見た一面であって、彼が本心でどう考えていたかでもう一波乱起きると予想している。
そこでどのような衝突が起き、どう解決するかが残り半年の課題になりそうだ。


6月掲載

ヨロイ島での話が中心の今回。

まずは状況整理で、腕利きのトレーナーが多いヨロイ島にはしーちゃんとマナブが行く事になった。
やはり実力で見ると、最後まで残れたホップ・マリィとしーちゃんの間には格差があるということだろう。
前回で登場人物の過半数を退場させたので、改めて話の方向性が分かりやすくなったと思う。
こうなると、剣盾は敵キャラに対して味方キャラが多すぎるので、ポケスペの話作りの上で支障が大きかったのだと改めて痛感した。
そして残りはカンムリ雪原に向かうこととなり、まあこちらはこちらで協調性に欠ける面子が一人いるので波乱が起きそうではある。

さて、クララとセイボリーは両方出てきて、互いにライバル視する関係としてきた。
更にクララはムーンと連絡先を交換した仲で、そーちゃんの解毒に関わることとなる。
正直、クララとムーンに関係性を出すのは予想外で、こういう地方間を繋ぐ関わりがポケスペ独自の強みに思える。
流石にここを深掘りする時間はないと思うが、今後通巻版で話を繋げられると良いかもしれない。

最後にしーちゃんとクララのバトルだが、久しぶりのダイマックスのないバトルだ。
もっとも、時間がないので全て一撃で終わってしまうのは仕方ない。
あとようやくラビフットにニックネームをつけたのだが、その葛藤ももう少し早く描けていればなあ…。
ただ、女子図鑑所有者の手持ちが6体揃ってバトルする画が曲がりなりにも描けたこと自体は、本当に喜ばしいことだと思う。


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シン・ウルトラマンの取り急ぎの感想(ネタバレあり)

2022-05-14 18:32:00 | 特撮
とりあえずまとまった感想を書こうとすると新鮮味が薄れるので、印象的なところだけさっさと書き出しておく。ネタバレ全開なので注意。











まず、今回のウルトラマンの容姿。
カラータイマーと背鰭を廃したスタイルは着ぐるみの制約から解かれた部分だが、まさかAタイプ~Cタイプの顔の変遷をやるとは思わなかった。そこにまず意表を突かれた。
もしかしたら「シルバーヨード」(Aタイプの口を開けて可燃性の液体を吐く技。没になった)をやるのかとすら思った。
更に、カラータイマーの代わりに設けられた「体力を消耗すると赤いラインが薄れていく」という設定。
こちらもCGならではのアレンジで面白く、かつ音がないので「気がついたらヤバい」という状況が作れていて緊張感がある。

次に、登場キャラ。
人間キャラについてはシン・ゴジラほど深みのある人物造形というわけではなかったかな、というのが率直な印象。
ちょっとドラマ面のテンポが滅茶苦茶速かったので、言動がコロッと変わりがちなのは致し方ないかな…。悪いキャラ作りではないし、特に滝の苦悩は「小さな英雄」をそのまま発展させたようで面白かったのも事実。
敵キャラについてはCGならではの造形がかなり光った。半分しかないザラブ星人には唸らされたし、超巨大レールガンと化したゼットンも良い捻りだった。
狡猾な方法で破壊も織り混ぜて取り入るザラブ星人→破壊は使わず言葉巧みに上位存在に位置付けようとするメフィラス星人→危険と判断して地球そのものを消し去るゾーフィと、敵キャラのランクアップも十分なのだが、できればザラブ星人の前にバルタン星人をいれて欲しかった。構想通り三部作の映画ならそれをできたのになあ…。
怪獣についてはのっけからゴジラ→ゴメスの改造ネタに始まり、バラゴン改造組を出すことで「こいつらには関連性がある」と前フリをするのは見事だった。
余談だが、パゴスを倒したときに死体処理でめっちゃ大変な目に遭ったことを台詞だけで示しているのは面白く、「あとしまつ」への当てこすりかなにかとあらぬ考えを抱いて笑ってしまった。

最後に、ストーリー。
基本的には初代ウルトラマンの話を下敷きにして、現代SF的なエッセンスを注入した作りなので安定感がある。
その中で、縦割り行政や国家間の駆け引きといった内容は割と少なめで、外星人と日本の戦いがかなり強く描かれている。ここは個人的に思いきってて良かった。
メフィラス星人の「侵略に対抗するために人類も巨大化する術を身に付けるべき」という甘言は、「大国によって侵略を受けている国がある現代」だからこそ響いた。ここは期せずして情勢とリンクしてしまったのだろうか。
そしてアレンジの中では、やはり「光の国と地球では根本的に考えが異なる」という強烈な一手が光る。
実は平成セブンでは、同じように光の国と地球の正義がぶつかり板挟みになるという展開をやってるのだが、続編ではない完全なリブート世界として作っている本作の使い方は個人的に上手く感じた。
「ゼットンを操ったのは謎の宇宙人ゾーフィ」「1兆度の火球」という児童誌ネタを取り上げつつ、なぜウルトラマンは地球を守るのかという根本的問題をうまく突いたように感じた。
最初は社会という概念が理解できず、個々の存在すら曖昧だったウルトラマンが、最終的に命を捨てつつ生きたいという意思で神永を助けるという収まり。
命を二つ持ってきてゾフィーが解決するのもハッピーエンドで嫌いじゃないけど、結局最後は希望が宇宙的意思に勝つのも良い終り方だと思う。


まあただ、特撮ヲタク的フェチズムというべき部分は割と強く出ていたように感じたし、「この展開ウルトラマンの文脈読めるから好きだけど、何も知らん人はこれ見てどう思うのかな…」と心配ではある。
そんな問題を払拭するヒット作になってほしいが、どうなるかはまだ分からない。

完全な余談として、「あとしまつ」に出ていた嶋田久作と岩松了がいずれも政治家役として出ていたのには苦笑してしまった。勿論あの映画の悪夢を払拭する演技と役回りだったので安心はしたが。
「あとしまつ」のあとしまつが自分の中でようやくできたのかな…。


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