「ポケットモンスターSPECIAL ソード・シールド」(以下ポケスペ剣盾編)は、2023年7月28日発売の単行本7巻で一旦完結した。
本作に携わった全ての方に、まず感謝とお礼を申し上げたい。
特に一度体調不良で休載された日下先生においては、十分な休養を取っていただきたい。通巻版の作業は少なくとも4年以上かかると推測できるので、SV編の連載と並行になるが、是非とも成し遂げてほしい。そのためには体力が必要になるであろう。作家業は不健康な生活が普通になってしまうが、健康が第一の資本であってほしい。
さて、山本先生がTwitterで明かしたように、本章はあくまで一旦連載が終わっただけで、載せられなかったエピソードが多数存在している。
そういう意味では完結したわけではない。
なので、いわば未完成の作品について総括として論評を加えるのは、いささか性急にすぎると思う方もいると推察する。
しかし現段階で自分がどう考えているかをまとめる作業も、また必要なものであろう。
本稿はその必要性に基づいて記すものである。
ポケスペ剣盾編の総括をするにあたり、自分は「ストーリー」「キャラクター」「バトル」の3点から解析をしていくことにした。
特にバトルの項は、これまでのポケスペのバトルとの比較分析を多用していくので、非常に長く、かつ手厳しい指摘が多くなる。あらかじめご了承いただきたい。
また今回は個別の解析が長くなることを考慮し、記事を三分割してお届けする。
本記事では「ストーリー」についての論考を進めていきたい。
全体的なテーマによる演繹的解釈
剣盾編のテーマが「居場所」であるということは、連載終了後山本先生のTwitterにて明かされた。
まずはこのテーマにより、ストーリーに散りばめられたものを見ていきたい。
剣盾編全体のストーリーとしては、図鑑所有者二人のジムチャレンジをめぐる思惑に、ムゲンダイナの復活による危機が絡んでいくというもの。
これだけ見ると、あまり居場所というテーマがあるようには思えないのだが、一旦テーマに沿って各要素を見ていきたい。
まず主要キャラに目を向けると、図鑑所有者達とマナブにはそれぞれ、居場所がないという共通点がある。
そーちゃんには父親がおらず、しーちゃんも家族から周囲の同年代から(指摘があったので修正)疎まれていて、マナブは学校に居場所がない。
そんな彼らの居場所は根無し草のキャンピングトレーラーであり、こうして見ると要素として大きなものであることが最初から示されていた。
さらに、身具の鍛練にのみ興味があり周囲の人間の気持ちはお構い無しというそーちゃんの気質は、社会にあまり適合しているとはいえない。しーちゃんも、いかなるときでも声がやたらでかくなってしまう部分があり、これも社会から疎まれかねない要素だ。二人を繋ぐ共通項は、「社会に居場所が少ない」という部分であろう。
そこに、ガラル粒子を無尽蔵に産み出すがゆえにダイマックスをところ構わず起こしてしまうムゲンダイナが、社会を破壊する存在として立ち塞がる。
社会不適合な要素を強く持つ二人vs社会の破壊者という構図は、11章のラクツ・ファイツvsアクロマ・ゲーチスの構図に近い。
戦って逮捕することによって勝利した11章と異なり、剣盾編では確かにムゲンダイナを倒すことで解決はしたものの、ムゲンダイナが生きていける社会を作るべきではないか?という救いの手をさしのべることもしている。
これを製作陣の思想の変化ととれるかは微妙だが、しーちゃんが自分と同じようなあぶれ者への同情からそのような結論に達した、というだけでもなかろう。
ムゲンダイナのガラル粒子が社会のインフラとなっているから、という人にとって都合の良い部分も間違いなくあるといえる。
いずれにせよ、答えは11章からすこし違う方向に着地した。
この構図を描く上で少し惜しいなと思うのが、図鑑所有者たちに社会を疎ましく思う気持ちが少しはあっても良かったのではないかという点。
無論子供が主要読者なので、社会への疎ましさを覚える主人公はやや踏み込みすぎな面もあるかもしれないが、以前には引きこもりで交流の一切を疎ましく思うエックスという例もあったのである。
一応、そーちゃんは「本当はやりたくないジムチャレンジをやっていた」という蟠り、しーちゃんは「発言すると大概の人が耳を塞いでしまう」という周囲への迷惑があったので、社会とのずれはさりげなく描かれてはいた。
ただ、「ジムチャレンジによってしか立身出世が望めない息苦しさ」がもう少し明確に描かれていれば、対立の構図がより鮮明になったのかなと思う。
ここでどこからそのテーマを見いだしたのかと考えてみると、原作のソニアに由来すると思われる。
原作のソニアは、登場当初は学者として中途半端な業績しか挙げられず、かといってトレーナーとしては一流の域に到底なっていない。
そんな事情から、祖母であるマグノリアからも師匠として厳しく言われており、家庭でも仕事でも居場所がない状態であった。
原作はそんなソニアが学者として一人立ちし居場所を見いだす話でもあったので、ポケスペはそちらを重視して居場所をテーマにしたのではなかろうか?
必然的に、ソニアの存在はポケスペにおいて原作よりもウェイトが重くなる。
その反映として、彼女の過去の挫折が序盤~中盤での重要な謎として機能してきた。
ダンデが弟を推薦しなかったことや、ソニアがダンデと会うことを殊更に避ける理由がそこにあったため、その解明が話の転換を告げるタイミングとなった。
確かにこれは話のフックとして機能してきたので、目を引くものではあったが、ではテーマにどこまで響いているのかというと微妙な面がある。
ソニアが過去の挫折を告白した後、どこに居場所を見いだしたかについては言及が大きく減ってしまうからだ。
どちらかというと、居場所というテーマに則したサブキャラクターはビートだろう。
親なき子であるビートはローズによって居場所を与えられ、剥奪される。
しかしポプラの手助けでジムリーダーとなり、そーちゃんとの蟠りも解消し、ローズとの対話で彼の真意を知り和解する。自分の居場所を自分で確保する形でラストを迎えた。
原作ゲームからの要素とオリジナル展開のカンムリ雪原編をうまく交え、ビートについてはテーマに則した話をうまく展開できていたのではなかろうか。
というより、居場所というテーマで見るとビートの方が徹底的に描かれているように感じられる。
先述した通り、図鑑所有者とムゲンダイナの対立軸は少し分かりにくい。その点ビートは、居場所を剥奪されて新たに得た者であり、社会からは一度排除された者でありながら、社会秩序を破壊するムゲンダイナに抵抗することになる。
居場所を明確に見つけられたわけではないそーちゃんと比べても、自身の居場所を確立したビートの方が話としては一貫しているのである。
権力と居場所
さて、テーマに基づいた分析は主要キャラだけではなく、悪役にも向けられるべき目線である。
シーソーコンビはしーちゃんの手持ちからしーちゃんという居場所を奪った悪であるが、テーマという部分で見るには小者が過ぎる。
やはりテーマを以て見るべきはローズであろう。
ローズはガラルの実質的支配者として絶大な権力をもち、それだけに各人の居場所について万能の力を有する。
ガラルが住人にとって居場所であることは当然のことだが、ローズにはそれを守る責任もついて回る。
その責任と、ガラル粒子の枯渇が目の前に迫っているという事実が、かような強引な手段に走らせたと作中で示されており、居場所を守るための手法が居場所を破壊する悪事に繋がったという皮肉となる。
居場所を守り与える存在と破壊する存在が同一であるというのは、「権力」の二面性に他ならない。
そして権力の暴走に対し人々が立ち上がり阻止する、こう書くと革命のような文脈に見えてくる。
ただ、ポケスペは過激な方向でその文脈を進めてはおらず、あくまでローズは悪役ではなく権力者の失敗として描かれていて、逮捕されるだけで済んでいる。
権力の暴走という面で見てみると、12章との比較もまたできる。
12章はフレア団がカロスの支配層に食い込み、人口の間引きを行おうとするのを阻止する物語であり、二面性のある権力を「人の生活を破壊するものはフレア団という悪」として表層化している。
だからこそ、「カロスの権力=フレア団」という構図となり、フレア団を壊滅させることはできないというビターエンドとなる。
権力が人々の居場所を保障することのみで成立するのであれば、フレア団を切り離して倒せば終わりになるのであるが、権力の本質は暴力の独占(マックス・ウェーバー流に言うなれば、だが)であり、破壊する機能を持っていないと権力足りえない。そして権力がないと統治は機能しない。
この面をより分かりやすい形で示したのがポケスペにおけるローズであると自分は考える。
また、ローズは「ピカピカなガラルに耐えられないものの巣窟」であるスパイクタウンを滅ぼすつもりはなく、その点でもフラダリとは異なる存在であると強調されている。
だからこそ、フラダリと違って徹底的に破滅することはなく生き延びられたのだと思うし、完全な悪役とまでは行かなかったのであろう。
帰納的な分析
上の項では語られたテーマに従ってストーリーを見ていくという、演繹法の解釈を取った。
しかし、複数の人間が製作に絡む創作作品においてテーマが単一足り得るかといえば、そんなことはないと考える。
然らば、テーマを炙り出すには演繹法とは逆の方法ー帰納法により行うほかない。
もう一度剣盾編全体の縦軸を見返してみると、ローズはガラル粒子の枯渇を憂いてムゲンダイナを目覚めさせたが、シーソーコンビとの共謀は失敗に終わり、人々の協力によって事態は収拾される。
その中での記者対応で「誰か一人が英雄として解決をしたわけではない」と強調される。誤った理解をされないように。
失敗の本質はローズが「ガラル粒子の枯渇が近いことを公表せずに、人々との対話を行わずに善行をなせば良いと考えたから」であり、その気質はそーちゃんにもあると示されている。
更に、図鑑所有者二人の関係も、当初はそーちゃんがしーちゃんの意思を無視して強引なサポートをしていたが、それを終盤では否定しお互いにやりたいことを尊重するという方向へと変わった。お互いに話し合うことで関係が拗れることなく、円満な交遊関係を築いた。
前半の中核であったソニアとダンデの関係の拗れも、互いに話し合うことを放棄したこと、更にダンデの一挙手一投足がマスコミの注目にあることが原因で、対話をしづらい状況にあったからだ。
マスタードとそーちゃんの師弟関係は、ダクマとの交流を通じて何をダクマが望んでいるのかによって進展していく。変則的なコミュニケーションである。
バドレックスが信仰を失ったのも、村人との相互交流が不足していたことにあった。
こうして要素を拾ってみると、自分が剣盾編全体から受けた印象としては、「コミュニケーション」あるいは「対話」に重きが置かれているように思える。
特権階級との謀議に走り人々とのコミュニケーションに失敗したのがローズであり、内面を開いた対話に成功したのが図鑑所有者たちである。
そーちゃんの内面はともすれば悪人のそれ、過去の章で類似する人物を挙げればプルートに近い。すなわち、自分の興味ある事象に至るなら周囲の被害は考慮しないというところである。
ただ、それでも彼を悪へと踏み切らせないのは、周囲への外面だけは良くしようとする理性があるからでしかなかった。
外のコミュニケーションだけはうまくやれても、内面は他人に見せず、何となく好感触だけ与えるが真に心を開くことはない。
他人に関心がないため、一応善いことをするものの、本当に内面に立ち入ることはなく、なあなあな関係で終わらせてしまう。
対して、しーちゃんは他者に耳を塞がせる大声でしか喋ることができず、外のコミュニケーションに大きな問題がある。
しかし、内面は裏表なく率直な感情を出すため、落ち着いて話すことができさえすれば良好な関係を築くことができるのである。
このコミュニケーションの対称性を改めて問い直したのが、ヨロイ島における二人の真の対話である。さらにカンムリ雪原へそーちゃんが移動した後も、シャクヤによって彼の内面がきっちり言語化され、ローズと近いことが強調される。
しかしそんな彼であっても、目の前の状況に真摯に取り組みさえすれば善行を為すことができる。
しーちゃんとの対話を通して、自分の行為に対する赦しを得たことで、ようやく周囲に取り繕うことなく自分のしたいことができ、結果として事態の収拾につながる。
結局、人にとって善いことを為すためにはしっかりと内面を通した対話をして、その上で自分のやりたいことと折り合いをつけるのが重要であるということなのだろう。
剣盾編の縦軸に対する評価
居場所というテーマは確かに主要人物に一貫したものであるが、その観点で評価すると図鑑所有者が一歩下がった立場となり、ビートの方が主役に見える状態へと変わってしまう。
それはそれで話が見えやすくなって良いのだが、やはり図鑑所有者が話の主軸として存在できるものが、テーマとしてあるべきではないかと自分は考える。
なれば、図鑑所有者を軸として見たテーマは「コミュニケーション」であり、その観点からして「コミュニケーションはできても内面が危ういそーちゃん」「コミュニケーションが難しくても内面は善良なしーちゃん」と、「コミュニケーションを放棄し社会を危機に至らしめたローズ」「コミュニケーション不能なムゲンダイナ」という対立構図になる。
この対立構図が明確になるのは中盤以降だが、注意して読むと序盤からソニアとダンデの関係を通じて「なぜ対話しないのか?」という問いかけを投げ掛けているので、そこから発想もしやすいようになっている。
そしてコミュニケーションというテーマでフィルターをかけることにより、各キャラクターの導線や善悪の基準も見えてくると自分は考えている。
無論、ポケモンとの交流はどの章でも主軸にあたるものだし、自分が読み違えている可能性は十分にあるが。
さて、「居場所」「コミュニケーション」のどちらも縦軸としては最初から一貫して描かれている上に、あぶれ者への救済も示しているため、縦軸としての機能はしっかりしていたと総括しておきたい。
次は「キャラクターの個別分析」に入る。↓
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