城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

日本軍の反攻

2022-05-06 16:14:30 | 小説「沖縄戦」


 
1945年3月26日、アメリカ軍は、沖縄本島から約40キロ西にある慶良間列島の阿嘉島に上陸した。これが沖縄戦における最初の米軍上陸であった。これには日本軍は大変あわてた。それというのも日本軍は慶良間列島の渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島の入り江や谷間にベニアで作ったエンジン付の特攻艇を数百隻隠してあった。
 日本軍はそれらすべてを自ら破壊し、持久戦に入ると称し、山中に退避した。その時島民多数が日本軍から渡された手榴弾などで集団自殺を図った。
 米軍は4月1日、エープリルフールに沖縄本島嘉手納沖の海岸に早朝から砲撃を開始し、大した抵抗もないままに上陸、二つの飛行場を手に入れ、翌日には太平洋岸に到達した。
 日本軍は主力を南部の丘陵地帯の地下に潜ませて、敵が攻めてくるのを待っていた。
 米軍通訳のマイケルは北へ避難するボロをまとい、ヤカンなどのわずかな家財道具を頭上にのせた老人や女、子どもの列を見ていた。15歳から45歳までの男は見つけ次第捕虜にして収容所に送り込んだ。マイケルは捕虜から日本軍の居場所を聞きだそうとしたが、だれ一人答える者はいなかった。
 米軍が南部の丘陵地帯に迫ると、日本軍の抵抗は徐々に激しくなってきた。
 長参謀長のもとには沖縄軍の直属上級司令部である陸軍第十方面軍より水際で攻勢を取るようにとの要請電が届いていた。連合艦隊からも米軍が占領した二つの飛行場を使用不能にするための攻撃を求めてきた。台湾の飛行師団からも同様の激烈な要請電が寄せられていた。さらに大本営からも敵を攻撃し飛行場を再び確保せよという要請電が届くにいたった。
 長参謀長は参謀長室に参謀全員を集め、攻勢に転ずるべきとの意見を述べた上で金鵄のパイプタバコをふかしながら各参謀の意見をきいた。口ごもる者もいたが、長参謀長の断固たる決意に押されるように若手参謀が次々と攻勢賛成の意見を述べた。
 八原高級参謀はこの状況を苦々しく聞いていた。彼ははっきりと反対の意見を述べた。
 八原の考えは、米軍の圧倒的な火力の前に洞窟を出て攻撃をしかけても、裸で砲弾の前に立つようなものであり、自殺をするようなものである。米軍に占領されている飛行場を使用不能にするには、かねての計画通り、長距離砲を打ち込めば、一人の損害もなく目的を達せられる。大本営や方面軍などの司令部からの要請電報は命令ではなく、あくまでも要望である。いや、命令であっても状況が不利になることが明白であれば、有利な方向に変えることが許される--というものであった。
 長参謀長は全員の意見を聞き終わると、一言も反論せず、「多数決により攻勢に決する。これから司令官の裁可を受けに行く」と言い残し、参謀長室を出て行った。
 牛島司令官の決裁はいつも同じだ---と八原は思った。長参謀長の提案にOKを出すだけである。
 八原が予想したとおり、牛島司令官は攻勢を決定した。八原はもちろん納得できなかった。司令官が攻勢と決した以上はこれをくつがえすことは不可能に近いが、作戦の結果が明白である以上、これを止めなければならぬという一途な信念から、彼は今一度再考を促すべく参謀長室へと向かった。
 参謀長室前の坑道で立ち話をしていた牛島司令官と長参謀長に、八原は自論を展開した。攻勢は兵を死なすだけに終わるということを切々と訴えた。八原の目からは涙がしたたり落ちた。
 牛島司令官と長参謀長は顔を見合わせたまま一言もしゃべらなかった。
                      (2009年「城北文芸」42号)