城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

坂の下の沼地に咲いた花

2022-05-31 14:12:47 | 私小説

 私たちが住んでいたのは二階建て木造長屋の二階だった。部屋の間取りは六畳か四畳半一間と小さな台所だったと思う。母の話では戦争中は兵舎だったらしい。くすんだ色の古い建物で、大雨が降ると、ところどころに雨漏りがして、たらいやバケツを置いてしのいでいた。台風がくると倒れる恐れがあったので、急遽つっかえ棒がいくつか長屋の側面に施された。水道はなく、長屋の敷地の中に共同の井戸があって、手押しポンプを使って、井戸水を汲み上げた。後年、母は手押しポンプを使用中に手を滑らせ、反動で上昇した鉄の柄の部分が前歯に当たり、口が血だらけになってしまった。急いで医者に行ったが、歯が欠け、母のきれいだった歯並びはバンパイアのようになってしまった。
 多分、私がまだ保育園に通うようになる前のこと、父が部屋で新聞を読んでいた。私が父の膝に手をかけ、あぐらの上によじのぼろうとしたところ、父に頭を叩かれた。私は泣きながら廊下の共同炊事場で鍋釜を洗っている母のところへ行った。私は母の「どうしたの」という問いに答えて、私が泣いている原因を訴えた。すると、母は炊事の手を休めて私の頭を撫で、笑っていた。
「ああ、よしよし、どうしたの」
「お父さんにぶたれた?どこを」
「ああ、ここかい。痛かったろう。かわいそうにねえ」
「おお、泣くんじゃないよ。強い子だねえ。強い強い」
 と言って母は私を慰め、打たれた頭をさすってくれたが、私が母の顔を見ると母は笑っていた。
 私は母に父をとっちめてほしいとたのんだが、母はただ笑って、「困ったわねえ」と言ったきりだった。私は不満で、駄々をこねた。私は母の割烹着に顔を埋め、母を揺さぶった。母は腰をかがめて私の肩に両手を伸ばし、小さい私を母のからだから引き離し、
「あとでお父さんに言ってやるから大丈夫よ。こわくないから。外へ行って遊んでらっしゃい」と言ってまた炊事のしたくを始めたのだった。
 これが私が憶えている父との最初の思い出だった。三つ子の魂百までとはこういうことかなと思うくらい今でも忘れることのできない出来事だった。
 私の父との最初の思い出はたたかれたことだったが、私は母には一度もぶたれたことがなかった。つねられたこともなかった。もっとも、母は後にリウマチを患い、つねる力もなくなったのではあったが。近所の同年輩のお母さんは「言うことをきかない時はぶってやりなさい」と母にすすめるのだったが、母はあいまいに言葉をにごしていた。
「言うことをきかなければ、あたしがかわりにぶってやるから、連れてきなさい」とその人は私の目の前で母に言って聞かせ、私を牽制した。私は相当悪そうに見えたらしかった。
 私の父と母は見合い結婚だった。というか、母の話では写真を見ただけで、会うこともなく、結婚を決めたそうである。その当時は今と違って見合い結婚が多かった。それに、戦争があって、戦死した男性が多く、女性の方が余っていた。結婚できない可能性もあったが、今と違って世話焼きも多く、結婚話も舞い込んできた。母の話では田舎の立派な人の紹介だったそうである。立派な人というのは、職業は何をしているかわからないが、立派な身なりをしていて、村の学校に多額のお金を寄附するので、村人に尊敬の念を抱かしめる存在だったとのことだった。どうも、後で知ったことのようだったが、村のうわさでは、軍の闇ブローカーか何か、いかがわしいもうけをしていた詐欺師ということだったそうだ。窮乏物資がその男の家に行くと、ふんだんにあったという話である。その男が、東京にいる彼の甥にあたる人物と母との結婚話を持ち込んだのだった。
 私の母は、自分の背の低さや年齢にコンプレックスを感じていたらしく、自分などだれも貰い手がないと悲観していたので、見合いもせずに結婚を承諾してしまったのだった。 
 仲人口というのはいいことしか言わないのだが、そんなことも知らなかったのか、母はその立派な人の言うことを信用して結婚を決めたそうである。
 私の父は腕のいい旋盤工だった。とはいえ、私は父の旋盤工としての評判を私の同級生以外のだれからもきいたことはないのだ。ただ、旋盤工というのはかなりの熟練が必要と聞いていた。その意味では腕のいい旋盤工と考えても多分それほど大きな間違えとも言えないに違いない。
 私が中学校の時、同級生に中小企業の社長の子がいた。その会社に私の父が勤めていた。いろいろな会社を渡り歩いてきたらしい。その同級生が、ある時、私の父にあわせてやろうと言った。私は即座に断った。なので、私はいまだに私の父に会ったことがない。顔を憶えていない。
 同級生が言うには私の父は仕事の腕はいいらしいが、かなりの変人とのことだった。どのように変人かは聞かなかった。女性と住んでいるらしい。私は父に全然関心がなかった。ただ、ひとつ関心があったのは、私の父の背の高さだった。というのも、私の母は子どものように背が低かったので、自分も背が低くなるのではないかと心配していたからだった。普通の体格と聞き、一安心したのを憶えている。
 私の両親が結婚式をしたのかどうかはわからない。結婚式の写真がないのである。もっとも、そのころの東京は焼け跡の時代であり、ホテルで披露宴をすることもなかったろうが、どこかの家の中で祝言を挙げたのかどうかも定かではない。今となってはもう母に聞くこともできない。
 結婚した二人は、戦前兵舎として使用されていたという古びた木造長屋の一室に居を構えた。都営住宅の空家抽選に当選したのだった。そこは元々は湿地帯の沼地だったところで、近所の空き地は雨が降ると水浸しになり、夜になるとカエルの声が聞こえるのだった。家賃はその頃のお金で一ヶ月百円から百五十円だったという。労働者の平均月収が八千円ほどだったとしても、民間の貸間と比べるとかなり安かったものと思われる。普通に生活していれば民間の貸間に暮らしている人と比べれば楽に暮らせたものと思われる。
 私の父は、ある中小企業の旋盤工として働いていた。
 私は、一度、母に連れられて、父の働いている工場へ行ったことを憶えている。そこは、工場というより、民家の仕事場を大きくしたようなところだった。土間に旋盤の機械を入れたような零細な企業だった。
 垣根のある石段を登って行った。そこが工場だった。母はその家のおじさんに、何度も頭を下げていた。私の母は生まれつき歯並びが良く、隠す必要はないとおもうのだが、なぜか口に手を当てて、話をしていた。どうもこの人が社長さんらしかった。
 母が困ったことには、私の父は外でどういう生活をしているのか、家に寄りつかなかった。家に給料を入れないばかりか、家の物を質に入れ、遊ぶ金につかってしまうありさまだった。
 私の母は子どもができれば夫も家庭に落ち着いてくれるだろうと赤子の誕生を期待していた。
 私がその長屋の一室で産婆さんの助けで生まれてから、しばらくの間は平穏な日々が続いた。母は父の会社の社長にかけあい、父の賃金を直接母に渡すようにしてもらった。父は母からお小遣いをもらうようになったのだった。
 そのうち、父は母から自分の働いた金を盗むようになった。また、当時の労働者の月給と同じくらいかそれ以上の値段だったがっちりした自転車を月賦で買って、すぐさま売り飛ばし、遊びに使ってしまうということも起こった。借金だけが残った。
 私には父の自転車に乗せられて、繁華街を通った記憶がある。私の父の思い出はたたかれたことと、自転車に乗った思い出の二つしか思い出せないのだった。
 やがて、弟が生まれたが、私の父は全く家に帰ってこなくなった。私がそのことを疑問に思って母に尋ねてみると、母は父が亡くなったというのだった。父の乗船していた船が沈没して海に沈み、突然亡くなってしまったというのだった。私は母が嘘をつくとは思わず、父を哀れに思ったものだったが、それにしても、父の写真がひとつも飾られていなかったのだった。これも母にきいてみると、昔は写真なんぞ撮らなかったというのであった。私は母が父の話をしたがらないことがわかったので、以降、父の死についてきくことはしなかった。幼い私の中では、そのことは触れてはいけないタブーになっていた。
 その頃、近所に創価学会に入っている人がたくさんいた。母が友達になるのはたいていそういう人が多かった。今考えると、彼らは創価学会員を増やそうという運動の一環で母に近づいてきていたのではないかと思われる。そのうち母は私を連れて、畳を敷き詰めただだっぴろい道場のようなところに話をききにいくようになった。母は創価学会の会員になってしまった。
 そのうち、その創価学会員の知り合いの女性から、「あんたはまだ三十代で若いんだから、独りじゃもったいないよ」と言われ、同じ創価学会員の男性を紹介された。その再婚相手の男性は池袋の近くで古道具屋を営んでいた子どものいない中年男だった。
 その男は、スクーターに乗って、私たちの前にあらわれた。ベレー帽をかぶっていた。
 後でわかったことだが、この男がベレー帽をかぶっていたのにはわけがあった。彼はスクーターの後ろにリヤカーをつけて商品の仕入れや配送を行なっていた。
 ある時、彼は、そのスクーターに乗っていて、交通事故に遭遇してしまった。どういう事情でその事故に会ったのかは、彼の話を忘れてしまったので再現できないのだが、頭蓋骨から脳みそが飛び出るほどの重体となったそうである。長いこと昏睡状態が続いたのだったが、幸い、奇跡的に一命を取りとめ、その後機能障害も発症せずに完治した。ただし、頭の皮が剥がれ、頭蓋骨が露出するという醜い痕跡が残った。
 彼がなぜ常にベレー帽をかぶっているのか、一時たりとも頭の上からそれを離そうとしないのかはそういう理由があったのだった。
 彼は、この奇跡的な治癒を彼の信仰心の賜物と熱心に私たちに語ったのだった。とりわけ彼の熱心な「南無妙法蓮華経」という念仏祈禱が彼を救ったと信じていた。
 私の母とこの男は内縁の夫婦となった。私は、多分チョコレートをもらったからだと思うが、この男をすぐに好きになった。私の母は子どもがなついているからという理由で結婚を決めたと言っていた。
 この男の家で内縁の結婚披露のようなものが行われた。狭い部屋の中に何人もの人が車座になり、酒を飲んだり、物を食べたり、しゃべったりしていた。母はあの男の隣に黙って座っていた。母はとりすました様子ですわっていた。細いひだのある緑色のスカートが、足をくずしてすわっている母のまわりにふんわりと円を描いていた。
 私は陽気になって、車座になった人から人へと走り回ったり抱きついたりしていた。母が笑いながら注意しても私はやめなかった。母は最後に少々こわい顔をしてみせたが、私はおかまいなしだった。
 私はここで男の人にぶたれてしまった。私をぶった人は、子どものいたずらには厳しく対処するという主義の人で、アパートの管理人だった。この人は、私の父となる人と、自分のアパートを増築した自慢話をしていた。私の二番目の父に、不動産屋を共同で始めようという誘いをしていた。
 私は涙で母の膝をぬらしながら、腹立たしい思いで彼らの自慢話やもうけ話を聞いていた。
 私はこの二番目の父から色々なことを教わった。まず、彼は、私たち兄弟に、子どもの手より大きなU字型の磁石を与えた。それを使ってできるだけたくさんの鉄やニッケルを集めるようにというのだった。古くぎでも砂鉄でも、手箱一杯になるまで集めたら、それをクズ鉄商に売って、その代金を私たちにくれるというのだった。
 この義父はまた、スクーターなどに乗っている時に警察に出合った時はどうするかということを私に教えた。というより、彼は私をすでにそういうことを承知しているものと考えているふしがあり、彼に叱られることで、わかるようになったのだった。
 一つのスクーターに一度に四人が乗って走ることもあった。うしろの荷台に弟を抱いた母がすわり、運転する義父の前に私が立ち、ハンドルの中ほどを持って自分のからだをささえた。母は荷台をまたいですわるということはしなかったので、弟が荷台をまたいですわったうしろに横すわりにすわった。また、ある時は、スクーターのうしろにつけたリヤカーの上に私が乗って走ったりしたが、そいう時に警察に出合った時は、すばやくリヤカーから降りて隠れなければいけなかったが、最初のころは私にはその理由がわからなかった。
 実際にやったことはなかったが、彼は映画館に無料で入る方法も教えてくれた。
 彼は私にタバコの吸い方も教えようとした。この時は、例のアパートの管理人も古道具屋の店内にいて、彼の講習を止めようとした。
「今から吸わせては子どものからだに良くない」と言って、彼は止めようとした。
 七輪を中にアパートの管理人と椅子に座って対面していた私の義父は、
「一度吸わせてみれば、懲りて吸わなくなる」と言った。
「そりゃ、そうかもしらんわ」
 とアパートの管理人は、細長い痩せた土色の顔を大きく縦に振って感心してみせた。
「おれも小さい時分、ご幼少の時によ、おやじに無理に吸わされて、それで懲りたもんな」
 義父は、タバコを一服大きく吸い込んだ。そして、青白い煙を少し鼻から出して止め、口をゆっくり開くと、口を小さく開けたそのままの格好で、顔を三十度ほど上向きに倒し、突き出した唇の間から煙の輪を続けざまにポッポッポと吐き出した。
 煙の輪は、渦を巻きながらも、輪の形を崩さず、上に昇っていくのだった。そして、徐々に輪の形が崩れていくと、偽物の大判小判のぶらさげてあるあたりで雲散霧消してしまった。
 義父は、
「どれ、吸ってみろ」
 と言うと、彼が今まで吸っていたタバコを私に手渡した。私はその手渡されたタバコを吸ってみたが、煙が喉を通らないうちに、目がくらくらして、咳き込んしまった。私はそれ以来タバコを吸う気にならなかった。
 私は、小学二年生の二学期の時に板橋区の小学校から池袋の小学校に転校した。
 私がその転校先の小学校に最初に行ったのは、九月の初め、二学期の始まる初日だった。
 私は、役所の戸籍には入っていない義理の父だったが、彼に連れられてその小学校の門をくぐった。校舎の中央に高い時計台のある小学校だった。決まった時間になるとその時計台からオルゴールが鳴り響いた。
 義父は教室に入ると、担任の若い女教師の勧めに従い、隅の椅子に腰を降ろし、教室の子どもたちと向き合った。義父は短い足をつっぱね、大股を広げ、大きな尻を椅子の前方の角ギリギリのところに置き、ふんぞり返ってビール腹を突き出していた。背広はちゃんとしたものを着ていたのだが、私は彼の格好を恥ずかしく思ったものだった。私たちの前には、いずまいを正した四、五十人の小さな者らが私たちの一挙手一投足を見守っているのだった。私の義父には私はそういう格好をしてもらいたくなかったのだった。
 しばらくすると、椅子の角に座っているのが疲れてきたのか、義父はいずまいを正した。両手を腹の前に当て、顎を引き締めて笑顔をつくっていた。だが、腹は隠しようもなく出っ張っていたから、やはり見た目にいいものではなかった。顔の造作も不細工な感じで、唇が厚く、しまりのない印象だった。色が黒く、頬はシミだらけだった。鼻は削ぎ落されたような格好をしていた。何度も交通事故に遭っていたため、顔は傷だらけだった。白いものの混じった無精ひげが、彼の粗野さ加減をさらに印象づけていた。
 その時、私の他にもう一人転校生がいた。私たちは並んで紹介された。私たち二人はそれぞれ自己紹介をさせられた。最初に自己紹介をしたその転校生はなぜか緊張のあまり泣き出してしまった。私もそれを見て涙が出そうになったが、泣くまいとこらえた。
 そんなことがあって、家に帰ってから私は義父に褒められた。義父が賞賛する行為と母のいいと思う行為は違っていることがままあるのだった。母がむしろ良くないと思うことを義父は褒めることがあった。私が同級生とけんかした時も褒められた。けんかするくらい元気なほうがいいというのだった。もちろん、私には私なりの「正当な」理由があったのだが、義父は理由については考えに入れなかった。子どものけんかに親が口を出すなというのが彼のモットーだった。いずれにしても、勝てば喜んでいた。
 私の母は、学校の成績を大変気にする人だった。私がまだ低学年のころから、成績を気にしていた。母が再婚してからは、古道具屋の仕事は夜が遅く、私は母に勉強を見てもらうことができなかった。それで、私の学校の成績はかなり悪くなった。母はそれを悲しんでいたが、義父は逆にそれを褒めるのだった。義父の考えでは、学業は不必要などころか、返って害になるものだった。
 私が義父の家にきて、一番いやだったことは、水汲みと朝の祈禱だった。義父は毎日一日も欠かさず仏壇の前に座った。私たち家族も全員義父の後ろで正座した。私はこの正座がいやだった。
 食事の時も母は私たち子どもに正座をさせようとした。長屋にいた時は正座をしたことも、仏壇の前で長時間題目を唱えることもなかった。
 義父は私たちが正座をいやがると、食事の時にあぐらをすることは許したが、お経の時はがんこで、あぐらは許さなかった。
「なんみょうほうれんげえきょう。なんみょうほうれんげえきょう」
 義父は、仏壇の前にどっかりと腰を据え、一心不乱にお経を唱えた。同じ言葉の繰り返しだったが、独特のリズムがあった。
 母は義父の隣で手を合わせ、祈りの姿勢をしていた。私は、母の後で、やはり手を合わせ、黙想した。弟も同様だった。
 義父や母の鳴らす数珠の音がジャラジャラと聞こえ、一通りの祈禱が終わると朝食となるのだった。
 冬になって、母に子どもができたらしかった。私はそれを大人同士の話の様子で知ったのだった。私は妹が生まれることを期待した。しかし、妹も弟も生まれることはなかった。
 その内母は義父から暴力をふるわれるようになった。私にはその理由がわからなかった。私は義父の剣幕と母のくずおれる様子を見ていた。ただただ恐ろしかった。この頃の暴力で母の左耳の鼓膜にひびが入り、以降聞こえが悪くなった。
 そんなことが度重なったある日、母は義父に別れ話をもちかけた。
 それを聞いた私の義父は、最初の内は別れないでくれとか、反省すると言っていた。が、いよいよどうにもならないと見て取ると、
「おまえの始末をだれがみてやったというんだ。相当金が掛かったんだ。おまえの持ってきた家財道具などいくらの値打ちにもなりゃしなかったんだ。出ていくんなら出ていけ。おれはな、おまえがいなくたって生活していけるんだぞ。おどかしたってだめだ。今までだって、そうしてやってきたんだ。このまえの女とおんなじような口をききやがって。おれはおまえが欲しくて一緒になったんじゃない。子どもが可愛いから一緒になったんだ。どうしても出ていくんなら、子どもを置いていけ」
 と激昂した口調で言ったが、私のほうを振り向くと、やさしい口調で、
「裕一郎、おまえ、おかあちゃんと一緒に行くか。おとうちゃんと一緒にいたほうがいいだろう。今度また映画に連れて行ってやるからな。どうだ裕一郎、おかあちゃんと一緒に行くか。行くんなら行ってもいいんだぞ」
 私は義父を嫌いではなかったし、突き放した言い方が私のようなあまのじゃくな性格のものには逆の効果を生むらしく、私は義父と一緒にいると言ったのだった。
「さあ、裕一郎はおれと一緒にいると言ったぞ。出ていくんなら早く出ていけ」
 と義父は母に言った。母は本当に家を出て行ってしまった。
 義父はあわてて私をスクータの荷台にのせ、母を追いかけた。
「おかあちゃんはどこへ行っちまったんだろうなあ」と義父が言いながらスクータを走らせると、母が、着物のすそを左手で押さえ、右手で襟首を合わせて、うつむき加減に歩道を小走りに走っている姿が見えた。
 義父が母に追いつこうとスクータのスピードをあげた。母は足を速めた。うつむき加減の母が、一層うつむき加減になった。
 スクータは母に追いつくと、並んで走った。
「はははは、おかあちゃんが走ってる。いくら走ったって、こっちのほうが速いよな、裕一郎」と義父は元気な声で私に言った。
 スクータの後ろの荷台に乗っていた私は「うん」と生返事を返したのだった。 
 そんなことがあってから、母は逃亡の機会をうかがっていた。ほどなくして、私たちは母に連れられて、義父の家を出ることになった。
 私は母と一緒に行きたくなかった。義父とはいえ、子ども心に別れてほしくなかったのだった。母は、説得が無理だとわかると、「それじゃ、映画に行こう」と私をだまし、電車に乗って、大宮にあった親戚の家に行った。義父は私たちを大宮に迎えにきたが、結局、別れることになった。
 このようにして、母は義父と半年も暮らさずに別れることになったが、母は都営住宅を出てしまっていたために、住むところがなくなってしまった。親戚の家も大家族であったし、長く居候をするわけにもいかなかった。
 今まで住んでいた都営住宅にもう一度戻れないかと母は希望した。母は「あなたが不幸になるのは信心が足りないせいだ」と言われるのがいやになったのか、創価学会をやめようとしていた。ご本尊を返還することになった。母は創価学会の人に相談しても力になってもらえなかったためか、住宅の改善でよく先頭に立って東京都に要請に行っていた伊藤さんに相談した。伊藤さんはその界隈では共産党員と思われていた。母はもともと共産党が嫌いで、「口角泡を飛ばして話す人たち」という印象を持っていたのだった。でも、こうなったら、好きも嫌いも言ってられなかった。
 伊藤さんの部屋は長屋の一階の中ほどにあった。伊藤さんのところだけ庭に向かって一部屋建て増しされていた。小学生の娘がいて、そこでよくオルガンを弾いていた。母は伊藤さんから神野さやさんという共産党の区議会議員を訪ねて行くようにと紹介された。
 神野さやさんは、千九百五十年の朝鮮戦争の前夜まで板橋区清水町の米軍基地施設の中に開設されていた東京自由病院の看護婦で、その病院には「人民による人民のための人民の病院」という看板がかかげられていたそうである。東京自由病院は朝鮮戦争の始まる前日、カービン銃を持った米兵に包囲され、医師や看護婦は退去させられた。彼らが米兵にカービン銃を突きつけられて退去する際には、くやしい思いをしながら、インターナショナルを歌って退去したそうである。その後、その医師や看護婦たちは近くに別々の診療所を開設し、発展を遂げていった。二つに分かれた一方のグループは小豆沢の地に診療所を開設した。当時は医師と看護婦数人だけのようなスタートだった。その草分けの看護婦の神野さやさんが共産党の区議会議員になっていた。
 神野さやさんは住民の要望をただ請負うということはしないようにしていた。母は神野さやさんと一緒に何度も都庁に足を運んだ。そのかいあって、たまたま空き部屋になっていた別の棟の一室に入居が許されることになったのだった。
                     (2017年「城北文芸」50号)