私の母は大正十二年の生まれであった。七人兄弟姉妹の次女として生まれている。日本が敗戦したときには母は二十二歳ということになる。東京にまで空襲がされるようになる寸前に長野の山奥の実家に疎開していたようである。私は私が中学校三年生の時まで、毎年、学校が夏休みになると、弟と一緒に実家のある長野県に母に連れられて泊まりに行っていた。
母はそのころ学校の給食調理員をしていたようである。たまに、給食の残り物らしいパンの耳にバターをつけて食べた憶えがある。母の兄弟は多かったので一週間ぐらいずつ実家や兄弟の家を泊まり歩いて夏休みを過ごした。
まず、最初に行くのが母の実家である。そこには祖父と後妻の祖母、私の叔父にあたる長男夫婦が住んでいた。その昔は新宿から蒸気機関車の旅であった。新宿から中央本線経由で松本まで約六時間の旅であった。夏のことゆえ、母はノースリーブで胸元の開いた服を着ていて、子どもながら多少嫌な思いがしたことを覚えている。窓を開けて風に吹かれていると汚水が顔にかかってきたり、トンネルに入ると窓を閉めて煙が入るのを防がなければならなかった。塩尻のあたりでスイッチバックがあったような気がする。汽車がゆっくりと後ろにバックして、また走り出すのであった。
松本駅に着くと、男の駅員の声で「まーつもと、まーつもと」という構内アナウンスが聞こえてくるのだった。当時は国鉄で、駅員は男ばかりであった。
松本駅で松本電鉄の単線電車に乗り換え、終点の島々まで行き、上高地方面行きの登山バスに乗り換えるのだった。島々駅ではプラットホームの端で地面に降りてレールを横切り駅舎に着いたような気がする。駅前に降り立ってみると、そこは山々に囲まれ、三角屋根の駅舎のそばには自分たちの身体よりも重そうな大きなリュックを背負った山男たちが集っていた。厚い登山靴と長い靴下を履いていた。
古い満員のボンネットバスに乗り込み、二十分ほどすると私の祖父の待つ安曇村稲核(いねこき)に到着するのだが、そこまでの道は大変な道であった。一九九一年に大規模な崖崩れがあり猿なぎ洞門が崩落した後三本松トンネルが建設されて現在はすっかり変わっているが、当時はバス一台がようやく通れる道で、片側は山壁、片側は断崖絶壁であった。谷底までは百メートルはありそうな気がした。怖いので窓から下を一瞥するだけで長くは見ていられない。谷底には梓川が流れていた。ガードレールもついていない未舗装のでこぼこ道をいくつもの急カーブを曲がりながら登って行った。カーブで対向車が見えないところでは警笛を鳴らす。対向車と鉢合わせすると、どちらかの自動車がバックをして岩を削って広くした待避所まで戻り、すれ違うのだった。
私は調子に乗って「田舎のバスはオンボロ車、デコボコ道をガタゴト走る」と中村メイコがラジオで歌っていた歌を大きな声で歌い、母に小声で「これ、やめなさい。周りの人が気を悪くするじゃないの」と叱られた。いつだか、新しい稲核橋が開通してからだと思うが、「ほら、下に小さな橋が見えるでしょう。あれはおじいさんがつくった橋なのよ。今ではつかわれていないのよ」と登山バスが大きな橋を通ったときに母が指差したことがある。私の祖父は大工の棟梁をしていたという話であった。祖父が一人で橋をつくれるはずもないし、橋をつくるに当たってどのくらい重要な役割をしたのかもわからないが、今は使われていないとはいえ、自分の祖父のつくった橋が残っていることに私は若干誇らしさを感じたことがある。
稲核のバス停に着くと、降りたのが私たちだけだった。バス停に祖父母が待っていて手を振っていた。一日に何本も通らないバスだったので時刻表を見て迎えに出たものらしい。ここいらのバスは停留所でなくても手を挙げると止まって乗せてくれる。
祖父は頭が禿げていて、さびしいのかよく自分の頭に手を当てて撫でていた。祖父の家はバス停のすぐそばにあった。間口が狭く、奥に長かった。隣はガソリンスタンドだった。あとで聞いた話では元々そこも祖父の土地で、庭だったそうである。
玄関を入ると土間になっていた。二階には蚕が飼われていて蚕が桑の葉を食べるパリパリという音がしていた。途中から板で仕切られ、行き止まりになっていて、そこから先は祖父の息子夫婦が住んでいた。屋根には瓦がなく、大きな猫ぐらいの丸い石がいくつも載っていた。母に聞くと、母の生まれる前に稲核には集落中の大半の家を焼失させる大火が二度あって、それ以後ちゃんとした屋根のある家をつくらなくなったそうである。梓川と裏山との間に二百メーターほどの狭い平地が国道に沿って六百メーターほど続いていた。そこに人々がびっしりと家を建てていた。
家の前の国道は野麦街道と呼ばれる街道でもあり、野麦峠を越えて飛騨高山に通じていた。その昔、飛騨の貧しい農家の娘たちが紡績女工となって諏訪の製糸工場で住み込みで働き、工場の冬期休業前の年末に故郷に帰るときに通るのがこの街道であった。昔はバス道路も開通してなく、徒歩であるくしかなかったので娘たちは寒さと疲労で大変だったに違いない。年末の払いの足しにする給金を親に渡すためにここを必ず通らなければならなかったはずである。いったん帰れば、諏訪の工場は二月二十日ごろまで休みだったらしいので、しばらくは実家で過ごしたみたいである。
あとになって何かの本で読んだ記憶があるが、具体的なことは書かれていなかったが、相当腹に据えかねることがあったのだろう、稲核はその娘たちの恨みを買ったらしく、彼女らが稲核を通過する時は「稲核は三度焼けろ」と言って通ったそうである。
私の母は十七歳で東京に出てきた。何かの時に母から聞いた憶えがある。東京では最初に大きなお屋敷の住み込みのお手伝いさんをしていたこともあるようで、田舎言葉を笑われたそうである。母が下町には似合わないやけに丁寧な言葉づかいなのもその時に直されたからかもしれない。
母はもう亡くなってしまったので今となってはいつのことかわからないが、夜間の教員養成所にも通ったようである。小学校の教員になりたかったそうだが、試験に受からず、小学校の教員にはなれなかった。それでも幼稚園の教員の資格は得たようであった。私の家には、母が自分でつくったものかも知れないが、実際の折り紙がいくつも張り付いた分厚い折り紙の教本があった。また、板橋区の私立幼稚園で若々しい私の母が二、三十人の園児と並んで写っている記念写真があった。肩下まで伸びた黒髪が先のほうで細かく波打っていた。こんな髪の長い母は見たことがなかった。その他、母は看護婦試験を受けて受かり、看護婦にもなっていた。どちらが先だったか、今となってはわからない。県レベルごとに試験があり、受かりやすそうな県を択んで受験したそうである。十七歳で一人で東京に行くのはかなり勇気がいっただろうと私は思った。東京には戦死した母の兄がいたので心強かったものと思われる。「叩けよさらば開かれん」と母はよく言っていた。
祖父が「わんだー」と言っていたのを憶えている。「おまえたち」という意味らしい。「こわかねーか」というのは「疲れてないか」という意味であったり、「ズクがないもんでのー」というのは「エネルギーが沸かなくなったもので」とか「根性なしなもので」というような意味であった。母は実家に帰ると自然にその土地の言葉を話していた。稲核には周りの地域ではつかわれない稲核でしかつかわれない言葉もあったようである。母は稲核言葉と言っていた。
小学校の分校の近くのお寺の本堂には稲核出身で戦死した多くの若者の写真が飾られていた。その中に私の母の兄の姿もあった。彼は東京に出て、昼間働きながら物理学校の夜間部に進み、旧制中学校の教員になった期待の星であった。小学校の先生が私の叔父を上の学校に進ませるよう、わざわざ祖父のところに勧めにきたそうである。彼は昼間部の学生と互角の成績であったというから、相当努力をしたに違いない。徴兵され、南太平洋の海に沈んだきり、戻ってこなかったそうである。船で沈んだといえば、私の父も私が三歳ごろ、船に乗っていて遭難し、亡くなったことになっていた。離婚したということを知ったのは、ずっと後になってからのことだった。
親戚の人が集まると、必ずお互いを褒めあっていた。褒められた相手は必ずそんなことはありませんと謙遜していた。これはひとつの表向きの規則のようだった。本人のいないところではまた違う打ち明け話をしていた。
母は一時期、村の分校で代用教員をしていたらしい。教員養成学所に行っていたんだからできるだろうということのようだった。村に帰ると教え子から「先生」と言われて遭遇することがあるので気恥ずかしくて嫌だと言っていた。ボロを着ていられないというのであった。
伝説のその兄に私がそっくりだと親戚の人によく言われた。「生まれ変わりに違いない」と言う人もいた。家にあった名刺判の大きさのセピア色の白黒写真には学生帽を被った眉毛の吊り上った一重まぶたのテル叔父の姿が写っていた。私がテル叔父に似ているということを聞いて、祖父はうれしそうにしていた。
しかし、ある時、どんな悪いことをしたか今はすっかり忘れてしまったが、私は祖父に怒られて、離れにある土蔵の中に入れられ、鍵を掛けられてしまった。私は土蔵の中で長いことわんわん泣いていた。そのうち目が暗闇に慣れてくると、私は土蔵の中に興味が湧き、薄暗い階段を登って二階に行き、行李を開けて見た。塵にまみれた分厚い書物といくつかの古いノートブックを見つけた。あとで聞いたところでは、それは私の伝説の叔父の形見の品で、分厚い書物は聖書だったらしかった。私の叔父はクリスチャンだったそうで、「兄はへぃ、クリスチャンだでな、人殺しができないでな、軍隊に入ってえろう苦労したんでねぇかのう」という人もいた。
泣き声がしなくなったのを心配して、祖父は土蔵を開けに来た。祖父は禿げた頭に手をやりながら、「われはテルでねぇ、テルでねぇ」と呪文のように唱えていた。
私は今、テル叔父がどのような気持ちで軍隊に行っていたのだろうかと考えてみる。叔父は伍長という下士官であったそうである。敬虔なるクリスチャンであったらしい。「テル兄はのう、学があるだで将校になれるとこさ自分で伍長にしたっさだ」と親戚のだれかが言った。もう一つの伝説である。伍長という階級は海軍にはなかったようなので、陸軍の乙種幹部候補に振り分けられたものと思われる。甲種、乙種は適正によって振り分けられるようなので、自分から択ぶものでもないようである。幹部候補に志願したものの中から試験の結果で将校や下士官になるらしい。伍長という階級は海軍にはないようなので、彼は陸軍に召集され、輸送船で南方に渡る途中で消息を断ったのではないかと思われる。未だに遺骨も帰ってこないそうである。戦死したことにはなっていたが、母は「まだどこかで生きているのではないか」と言っていた。
私は、子どものころはよく知らなかったが、大人になると、キリスト教は人を殺してはいけないと説き、悪人が右の頬を叩けば左の頬を差し出せとすら教えていることを知った。けれども、どうして世の中から戦争がなくならないのか、多くの罪も無い子どもたちが殺されてしまうのか、ベトナム戦争の無差別爆撃の報道を見るにつけ、長い間疑問に思っていた。アメリカの議員も大統領も多くはキリスト教徒ではないか。
だが、最近、「聖書の名言集」という本を読んでいて、ようやくその疑問が解けた。つまりその本によれば、頬を叩かれる程度の軽いものではなく、戦争という重大な事態の時には、国の指導者が神は我らの側にあると言えば人殺しも許されると大方は解釈されているということのようである。日本の神は天皇だったから、明らかにキリスト教が言う唯一の神ではない。確かに、これではテル叔父は人殺しを正当化できなかったはずである。共産主義者のように兵役を拒否して牢獄に入っていれば、日本の敗戦後彼は生きて出てこられたかもしれない。しかし、それをするには大変な勇気がいったに違いないと私は思う。非国民の汚名を着せられ、家族にも大変な迷惑がかかったに違いない。そして、戦後、私の祖父が遺族の代表として九段会館に宿泊し、靖国神社にお参りすることもなかっただろう。
私たちが祖父の家に行くと、必ず川村屋にあいさつに行く。この集落で一番の金持ちとのことだった。「大草原の小さな家」のドラマに出てくるネリーの家のようなもので、村で唯一の商店なのであった。母はそこと親戚同様のつきあいをしていた。子どもたちを連れて行くと中でも川村屋のおばさんが大歓迎をしてくれた。若くして亡くなった母の実母を養女として育てたのが川村屋だったそうである。つまり、その養女は私の実の祖母に当たるのだが、聞いてみるとこの人の運命はかなり悲しいものだった。
私の実の祖母に当たる人は両親が亡くなるまでは何不自由のないお嬢様として育ったそうである。営林署の署長の一人娘であったという。調べてみると、営林署というのは後の名称で、明治・大正時代は林区署と称していたようである。その頃の公務員は大概武士の子孫だったそうである。それが、急に孤児になり、村一番の金持ちの川村屋に養女として引き取られた。養女が成長すると、川村屋は私の祖父に結婚話を持ち込んだ。祖父には実は好きな女性が別にいたのだが、川村屋の養女と結婚した。この好きだった女性が今は後妻となっている人だいうのである。この後妻にきた人は奥地の忌み嫌われているらしい地域の出身のようだった。こういうことはほとんどだれからも聞いてないが、おしゃべりな叔母がしゃべることがあった。真偽のほどはわからないが、家の中がふたつに分かれ、行き来がないのも、そのことと関係がありそうだった。
この元お嬢様には親から相続した土地や畑があちらこちらにあり、祖父はそこに桑の木やいろいろな作物を植えたようである。かなり遠くにある土地で、そこまで歩いて行き、カゴいっぱいの桑の葉を担いで運ぶのが女たちの日課だったようである。長兄は大工の跡取りとして祖父から期待され、厳しく指導されていたようである。だが、長兄の方は大工に向いていないのかあまり熱心に仕事をしなかったので、ますます祖父から叱られた。そのうち長兄は大工をやめて、折から国策としてすすめられていた満州開拓に妻とともに行くことにした。長兄は結局のところ、極寒のシベリアに何年も抑留され、命からがらようやくの思いで日本に帰ってきた。一緒に行った妻も満州で生まれた赤ん坊も、ともに生きては戻れなかった。長兄は後妻を娶り、二人の子に恵まれた。長兄は村役場の仕事をしていて、大工の跡は継がなかった。
私の母は「田舎の仕事に比べたら東京の仕事は楽だった」という。長い山道を重い桑の葉を担いで運ぶことに比べたら、肉体的にはずいぶん楽だったに違いない。特に私の母は同級生の中でも一番の小柄で身体が弱かったので、長姉より少ない量しか運べなかったそうである。母の年代の人たちは後の年代の人たちに比べて、総じて十センチ以上小柄のように感じた。家族が多いため、栄養が回らなかったのではないかと思われた。母の話では、母がある時、かさばって重い桑の葉を運んでいると、祖父が隠れてなにかをしているところに出会ったそうである。よく見ると祖父は一人ですべてのあんころもちを食べているところだったとの話。私も子どものころ一人でこしあん串団子をたくさん買い、店の前でその場で全部食べてしまったことがある。祖父に似ているような気がした。
そんな祖父であるが、村の保育園に小さなジャングルジムを寄贈したりしていた。そのジャングルジムに祖父の名前が書かれてあった。祖父は大工はもうやめているようだったが、菜種だったか菜種油だったかあやふやだが、販売をしていた。小さな看板が出ていたが、お客が来る様子もなかった。
国道を隔てた斜め向かいにあった旅館に風呂を貸してもらった。五右衛門風呂で木の底板がぷかぷかと浮いていた。
標高が高く水の流れが速いせいか、稲核には八月だというのに蚊がいなかった。ところが、ハエよりかなり大きな虻に刺され血を吸われた。
昔、柿などのフルーツの木がいくつもあった隣の庭は川村屋の求めに応じて祖父が譲り、ガソリンスタンドになったそうである。川村屋のおばさんは私たちが稲核から立ち去るころになると、必ずやってきて、私にお金の入った紙袋を渡すのだった。母が遠慮してその紙袋を必ずのように川村屋のおばさんに返した。おばさんはそれでももう一度渡そうとする。これが二、三度繰り返され、最後はおばさんが紙袋を強引に私のポケットに入れてしまうのだった。それもいつも五百円という大金であった。
後妻の祖母は夏で暑かったせいで、祖父と同じように上半身はは白い肌着だけでいることが多かった。下はもんぺのようなものを穿いていた。私が飼い猫をかまってると、「へぇ、猫をかまうでねぇ。えろうかまうとひっかくだでな」と叱られたのを憶えている。
東京電力のダムで堰きとめられる以前の梓川で泳いだこともあった。大きな丸い石がゴロゴロしている河原に下りて、狭くて浅い川を泳いで下った。深くて渦を巻いている危険な場所もあった。水が冷たいので、少し泳ぐと、じきに唇が紫色になった。戦死した叔父さんたちもここで泳いだのだろうかと思った。
川以外には特に他に遊ぶところもなく、ロープでできた吊り橋を渡るのがスリルのある遊びであった。吊り橋は揺れるので怖い。床板の隙間から遥かな谷底が見えた。
長兄の部屋の方に回ってみても、なかなか人の気配が感じられない。ステレオとかピアノがあるみたいなのだが、人がいるのかいないのか反応がない。「だれかいないのかー」とよんでみるのだが、なかなか反応がない。そのうち、二階の窓から長兄の嫁さんに良く似た女の子が顔を出した。目が合うとすぐ引っ込んでしまった。見ると、長兄の長男が建物の陰に隠れていた。彼はちょうど私と同じくらいの年のころであった。私の叔母に当たる母のすぐ下の妹だけが少し違って社交的だったが、私の母の一族はどうも、大人しい性格の人たちばかりであるようだった。私も学校では完全に無口で通っていた。ただ、家の中では内弁慶であり、たまには面白いことを言って母を笑わせていた。また、自分の大切にしていたプラモデルを弟が足で踏みつけ、壊してしまったのに謝らないことを根にもち、母のいない時に弟をいじめて母を心配させていた。
母のすぐ下の妹は若いころから人見知りしない性格で、よく国道を通るトラックに一人で乗せてもらっていたようであった。田舎の人はいい人ばかりなので何の問題も起こらないのだが、色々な事件が起きている昨今から考えるとかなり危ない行為のように思われる。が、叔母は平気でやっていたらしい。私たちも道を歩いていると、自動車が停まり、みず知らずの人に「どこに行くのかえ。同じ方向だで、乗っていきましょ」と声をかけられることもあった。
梓川に下りる崖の下の湧き水もおいしかった。稲核の家は裏山からの湧き水を引いているようで、蛇口をひねると冷たくておいしい水が出てきた。その頃の東京の水道水はカルキ臭くて不快な味が舌に残る水だった。祖父が東京に来ると必ず水道の味の不満を言っていた。塩素で消毒しているので仕方がないものと思っていたが、今では東京の水もずいぶんうまくなっている。何でも本気を出して改善すればできるものかと今となっては思うものである。
何軒かの庭を通って裏山の麓に行くと、道の傍らに水飲み場があった。ひしゃくが置いてあって水が飲めた。常に山から水が流れ、石で囲まれた場所に水が溜まっていた。そういう場所がいくつかつながって水が流れていた。こういうところにスイカを浸して冷やすこともできた。
裏山の中腹には風穴と呼ばれる天然の冷蔵庫がいくつもあった。各家庭ごとにそれぞれ風穴を持っているらしい。私の母は「かざな」と言っていた。戸を開けて、中に入ってみると、夏だというのに、そこの気温は九度しかなかった。冷たい地下水で冷やされた空気が出てくる場所だった。
(2015年「城北文芸」48号)