城北文芸 有馬八朗 小説

これから私が書いた小説をUPしてみようと思います。

伊江島に死す

2022-05-20 11:30:23 | 小説「沖縄戦」

 米軍の沖縄本島への上陸作戦が始まったのは一九四五年の四月一日の朝であった。米軍は上陸するにあたって大きな犠牲を覚悟していたが、ほとんど抵抗らしい抵抗を受けることなく上陸した。おびただしい数の輸送船や軍艦が嘉手納沖に集結し、海が見えなくなるくらいであった。数万人が遠浅の長い海岸めがけて上陸用舟艇に乗って殺到した。米軍はその日の内に北飛行場と中飛行場を占領した。
 陸軍の通訳としてマイケルは最後尾から上陸した。飛行場には米軍の空襲や艦砲射撃で破壊された日本軍の戦闘機の残骸が残っていた。滑走路は穴だらけであった。一九四三年夏から住民の力を借りて珊瑚の山を削り、土や石を馬に引かせて運び、整地をし、急がせて一年以上かかってようやく完成した飛行場も米軍の空襲にあい、十分に機能しないまま半年後には米軍に占領されてしまったのだった。米軍はブルドーザーを使い、三日間で補修を完了させ、とりあえず南部の日本軍に対する爆撃機発進拠点として使用できる態勢を整えた。さらに日本本土攻撃用の大型爆撃機の使用が可能となるよう飛行場の拡張、滑走路の強化、駐機場の増設を進めた。
 マイケルは十三キロにも及ぶ長い海岸線の南側から上陸した。南側には日本軍の砲撃もあり、大きな被害はなかったが、数十人の死傷者を出した。北側には海兵隊の部隊が上陸した。最北部からは従軍記者のアーニー・パイルも午後に上陸している。負傷したのは二人だけで、それも日本軍の攻撃によるものではなく、自損事故と太陽の暑さで気分が悪くなったものであった。昼飯に七面鳥を食べ、ピクニック気分だったと彼は本国に書き送っている。
 北部に避難し遅れた住民はガマと言われるいくつもある洞窟の中に隠れていた。銃を構えた米兵に竹槍で切り込む住民もいた。住民はすぐさま射殺されてしまった。洞窟の中では自決するか否かで意見が分かれていた。洞窟ごとに対応が分かれ、悲劇が起こることになった。あるガマにはたまたま住民の中にハワイ帰りの兄弟がいたおかげで、全員が手を挙げて洞窟から出てきた。そうでないところは住民同士が殺しあうという悲惨な光景が繰り広げられた。米兵は鬼であり、男は戦車に轢き殺され、女は皆強姦されると思われていたのである。天皇が神であると信じこまされていたのと同じように人々はそう信じていた。軍人や学校の先生からそう聞かされていた。住民同士でもうわさしていた。
 マイケルは拡声器を持って洞窟の入り口に近づき、「危害は加えません、手を挙げて出てきなさい」とやさしく呼びかけた。最初に何人かが出てきて保護されると、様子を見ていた人たちが、次々と洞穴から手を挙げて出てきた。中には女性や小さな子どももいた。マイケルは丸腰で拡声器だけを持ち、洞窟の入り口に入っていった。これはかなり危険な行為だった。日本兵が隠れていて狙撃されるかもしれなかった。片手に拳銃を持った隊長が懐中電灯をかざしながら先頭に立って洞窟の奥まで入っていった。
 ブルドーザーで整地し、鉄条網で囲った収容所に住民を収容した。ぼろきれをまとい鍋や薬缶等の家財道具を頭の上に載せ、子どもを負ぶった女たちが群れをなして北部を目指して歩いていく姿が目撃された。老人を荷車に乗せて押していく姿もあった。女たちは髪を短く切り、顔に墨を塗っていた。
 日本軍は南部の丘陵地帯に地下壕を掘り、十万の兵隊が潜んでいた。ここで米軍を迎え撃ち一日でも米軍の本土進攻を遅らせる作戦であった。北部には本部半島に三千人の遊撃隊を配置しただけであった。
 アーニー・パイルは痩せぎすの中年男で、前線にいる一兵卒たちを好んで取材していた。救護班に送られてくる傷病兵の様子を取材していた。腕や足を吹き飛ばされ、気も狂わぬくらいに苦痛にさいなまれている兵士たちをみつめていた。彼の書く文章はすべて軍によって検閲され、不都合な部分は削除された。戦争遂行のための士気の高揚に資する記事しかそもそも新聞には載らない。そういう中でも彼は傷ついた兵士の姿を書き、海兵隊と一緒に歩き、若い兵士に話しかけるのだった。マイケルはアーニー・パイルの書いた記事をよく読んでいたので、彼と一緒の戦線にいることは心強かった。
 北部に進攻した海兵隊は小規模な戦闘を制しつつ、本部半島に向かった。それとは別の海兵隊が東海岸を進撃中、日本軍数十人による夜襲攻撃を受け、三人が殺される被害を受けた。海兵隊も反撃し、日本兵二十人を射殺し、撃退した。日本兵は夜間に米軍キャンプ地に忍び寄り、米兵の背後から手をまわし、音をたてないように口を封じ、ナイフで刺し殺すのを得意としていた。そのため、米兵は夜間は外に出歩かないことになっていた。少しでも動くものがあった場合には、番兵が警告なしに民間人、敵味方の兵の区別なくすべて射殺することになっていた。
 本部半島の平地は四月三日から数日で平定された。日本軍は八重岳の山中に逃れた。屋部海岸に戦車を伴う部隊が上陸し、八重岳の山腹に砲弾を撃ち込んだ。
 マイケルは住民の間によからぬ噂があることに気がついた。米兵のグループが住民の男を連れ去り、連れ去られた男が戻ってこないというのであった。また、若い女を物色し、連れ去って行くというのであった。マイケルが歩いていると住民が空き缶やドラム缶をたたくことがよくあった。どうも色の黒い者は恐れられているようであった。
 いよいよ八重岳は米軍にぐるりと包囲された。空からは爆撃機が爆弾を落とし、戦闘機は低空で機銃掃射をした。いたるところに硝煙が白くたなびき、谷がかすんで見えた。本部沖に遊弋する戦艦からの艦砲射撃にも晒された。
 八重岳に逃げ込んだのは宇土大佐を司令官とする五百人の部隊と佐藤少佐率いる現地召集の一個大隊八百人であった。それに現地の中学生が通信隊として参加していた。県立高女十名も看護要員として動員されていた。さらに一万人もの住民が八重岳の谷間に逃げ込み、身動きができない状態になっていた。
 宇土大佐は一年前の六月に九州から輸送船富山丸で四千六百人の将兵とともに沖縄に向かった。その途中、徳之島沖でアメリカ軍の潜水艦の魚雷攻撃を受け、積荷のガソリンが発火炎上、船体が二つに折れ、富山丸は轟沈した。乗船した大半の者はやけどを負い死亡した。僚船に救助され、動ける者は四百人ほどが残り、漁船などに乗って沖縄にたどりついた。武器はすべて失われたが、宇土大佐は運よく生き残り、四百人の歩兵部隊を引き連れて本部半島の守備に着いた。
 対岸に伊江島が見える八重岳の麓に二門の重砲を配置していた。伊江島まで射程距離にあったが、海岸の間を悠々と遊弋し、八重岳や伊江島に艦砲射撃を続けている米艦船の群れを前にしてもただの一発も発射することができなかった。もし発射すれば、空と海からの集中攻撃に晒されるに違いなかった。首里の三十二軍本部からの戦略持久の指令に従っていた。結局、一発も打つことなく、米軍の砲弾により破壊されてしまった。
 宇土大佐は八重岳の中腹に藁葺きの小屋をいくつか作らせ、本部戦闘指揮所とした。宇土大佐は還暦に近い年齢であったが、戦略持久をいいことに炊事婦とは別に三人の那覇の遊女と一緒に小屋にこもっていた。いわゆる慰安婦であった。
 軍隊のいるところでは沖縄の住民も皆標準語をつかっていた。意味のわからない沖縄方言をしゃべる者はスパイとして疑われたため、軍から使用禁止令が出ていた。
 住民や兵は入り混じって八重岳の谷間や壕に潜んでいたが、包囲網をじわじわと狭められていた。宇土大佐は反撃に打って出ることもなく、指揮所にじっとしていた。米軍は戦車を繰り出して猛攻撃を始め、火炎放射器で樹木を焼き尽くしながら、出会った日本兵や竹槍を持った住民を殲滅していった。谷間には水を求めて這いつくばっている兵隊の姿があちこちに見られたが、その内、それらの兵隊も動かなくなった。
 いよいよ米軍の砲撃が激しくなると、宇土大佐は女たちを連れて、指揮所を放棄し、すぐそばの平たい高地である真部山に移った。指揮所には重傷者が取り残された。真部山の拠点には中学生の通信隊がいた。彼らの半数は数発の手榴弾以外の武器を持っていなかった。これらの者に若干の兵を混えて、夜間に真部山の山頂に移動し、夜明けを待って突撃を敢行することになった。だが、照明弾が昼間のように山頂を照らしていた。翌朝は米軍の偵察機が山頂付近を飛び回り、それがいなくなったと思うと、海岸沖からの無数の艦砲射撃が山頂に集中した。艦砲射撃がぴたりと終わると、海兵隊が火炎放射器と機関銃を持って、襲いかかってきた。隊長が「おれのあとに続け」と言って、突撃したが、旧式の小銃と斧やスコップを持っただけの生徒たちは、無惨に玉砕した。日没になると米軍は引き揚げて行った。
 宇土大佐はすぐに八重岳から南東に十五キロほど離れた多野岳への撤退命令を出した。四、五人ずつ班を組み、夜陰に紛れて脱出した。
 宇土大佐らはその後、北部の山岳地帯に移動し、住民から食料を強奪しながら、十月まで潜伏した。投降したのは、終戦後二ヵ月近くも経ってからであった。
 宇土大佐が多野岳へ撤退を開始したころ、米軍は伊江島への上陸を始めていた。
 アーニー・パイルは、いったん嘉手納沖の艦船に戻り、本国へ手記を送った。そして、伊江島へ上陸部隊とともに乗り込もうとしていた。生々しい戦争の様子、兵士の様子を書くのが彼の仕事であった。
 本部半島から広い海原を隔てて浮かんでいるのが伊江島であった。エンジンボートで行ったら、おそらく、二、三十分で行けるところであった。けっこう広い島で、徒歩で一周するには、おそらく一日がかりになりそうな島であった。
 珊瑚礁の隆起した島は平坦で、標高二百メートルに満たない岩山が一つ聳え立っていた。平坦地には大小五本の滑走路が建設されていた。現地の住民を動員して急遽つくらせたものだが、またしても、ほとんどつかわれないまま、米軍の手に渡すこととなった。珊瑚礁の島に特有のガマと呼ばれる自然洞窟が千人も入りそうな大きなものも含めて大小たくさんあった。
 マイケルはアーニー・パイルの一行と一緒に伊江島に上陸することになった。
 伊江島には疎開した老人や婦人、子ども以外の五千人の住民が残っていた。井川少佐を司令官とする八百人の歩兵大隊と現地召集の防衛隊、伊江島住民の防衛隊、青年義勇隊などが島の守備についていた。また、女性も救護班はもとより、協力隊として戦闘要員に加えられた。
 伊江島の飛行場は米軍の進攻前にすべて日本軍の手によって爆破された。
 四月十六日が米軍の伊江島上陸日と決まった。バクナー中将の命令であった。上陸前の数日間、艦砲射撃や空爆が徹底的に行われた。だれも生き残っている者はいないだろうと思われるほどの爆弾の量であった。
 上陸当日も早朝から砲撃、爆撃を行い、上陸部隊を支援した。天気は晴れていて、波は穏やかであった。やがて、上陸用舟艇に乗り込んだ先発隊が伊江島の南海岸に上陸した。読谷の海岸に上陸した時と同じように、陸からの抵抗はなく、静かな上陸であった。上陸部隊が次々と上陸して行った。水陸両用戦車も上陸した。
 連日の猛爆で、平らな台地にいる日本軍は吹き飛ばされてしまったのかと思われたが、やはり、そうではなかった。台地の地下には無数の洞窟があり、また、急遽掘りめぐらせた壕の中に隠れていたのである。沖縄特有の大きな亀甲墓はトーチカとして利用し、砲門を備えていた。
 コンクリートでできた村役場のある台地を奪取するために米軍は進攻を開始したが、その途中には無数の地雷が埋められてあり、このために戦車や装甲車が使えなくなった。
 歩兵が台地に近づくや、壕の中やトーチカから反撃の砲弾が打ち込まれ、米軍に死傷者が続出した。米軍は一時退却したり、一進一退を繰り返した。予備の部隊の増援を得て、ようやく米軍は台地を占領した。
 マイケルはアーニー・パイルよりあとの舟で上陸した。上陸してみると、この島の戦闘は大変危険であることがわかった。民間人が日本の兵隊と一緒になって戦っていた。婦人たちも自然洞窟の中で竹槍を構え、米軍陣地に夜間の斬込みをする部隊に参加する者さえいた。斬込みは連日行われた。大半の者は射たれて死んでしまうのだったが、重傷者が生き残って戻ってくると、分隊長から自決を迫られることもあった。
 洞窟内での集団自決があちこちで発生した。
 アーニー・パイルは四月十八日に米軍指揮官の乗るジープに同乗して、海岸線を移動していた。遠くでは激しい砲声が響き渡っていた。丘の手前に来た時、銃声が聞こえ、アーニー・パイルらはすぐにジープから飛び降り、近くの溝に身を伏せた。その時、アーニー・パイルのヘルメットのすぐ下のこめかみに一発の銃弾が当たった。即死であった。
         (2016年「城北文芸」49号)



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