1945年3月26日、アメリカ軍は、沖縄本島から約40キロ西にある慶良間列島の阿嘉島に上陸した。これが沖縄戦における最初の米軍上陸であった。これには日本軍は大変あわてた。それというのも日本軍は慶良間列島の渡嘉敷島、座間味島、阿嘉島の入り江や谷間にベニアで作ったエンジン付の特攻艇を数百隻隠してあった。
日本軍はそれらすべてを自ら破壊し、持久戦に入ると称し、山中に退避した。その時島民多数が日本軍から渡された手榴弾などで集団自殺を図った。
米軍は4月1日、エープリルフールに沖縄本島嘉手納沖の海岸に早朝から砲撃を開始し、大した抵抗もないままに上陸、二つの飛行場を手に入れ、翌日には太平洋岸に到達した。
日本軍は主力を南部の丘陵地帯の地下に潜ませて、敵が攻めてくるのを待っていた。
米軍通訳のマイケルは北へ避難するボロをまとい、ヤカンなどのわずかな家財道具を頭上にのせた老人や女、子どもの列を見ていた。15歳から45歳までの男は見つけ次第捕虜にして収容所に送り込んだ。マイケルは捕虜から日本軍の居場所を聞きだそうとしたが、だれ一人答える者はいなかった。
米軍が南部の丘陵地帯に迫ると、日本軍の抵抗は徐々に激しくなってきた。
長参謀長のもとには沖縄軍の直属上級司令部である陸軍第十方面軍より水際で攻勢を取るようにとの要請電が届いていた。連合艦隊からも米軍が占領した二つの飛行場を使用不能にするための攻撃を求めてきた。台湾の飛行師団からも同様の激烈な要請電が寄せられていた。さらに大本営からも敵を攻撃し飛行場を再び確保せよという要請電が届くにいたった。
長参謀長は参謀長室に参謀全員を集め、攻勢に転ずるべきとの意見を述べた上で金鵄のパイプタバコをふかしながら各参謀の意見をきいた。口ごもる者もいたが、長参謀長の断固たる決意に押されるように若手参謀が次々と攻勢賛成の意見を述べた。
八原高級参謀はこの状況を苦々しく聞いていた。彼ははっきりと反対の意見を述べた。
八原の考えは、米軍の圧倒的な火力の前に洞窟を出て攻撃をしかけても、裸で砲弾の前に立つようなものであり、自殺をするようなものである。米軍に占領されている飛行場を使用不能にするには、かねての計画通り、長距離砲を打ち込めば、一人の損害もなく目的を達せられる。大本営や方面軍などの司令部からの要請電報は命令ではなく、あくまでも要望である。いや、命令であっても状況が不利になることが明白であれば、有利な方向に変えることが許される--というものであった。
長参謀長は全員の意見を聞き終わると、一言も反論せず、「多数決により攻勢に決する。これから司令官の裁可を受けに行く」と言い残し、参謀長室を出て行った。
牛島司令官の決裁はいつも同じだ---と八原は思った。長参謀長の提案にOKを出すだけである。
八原が予想したとおり、牛島司令官は攻勢を決定した。八原はもちろん納得できなかった。司令官が攻勢と決した以上はこれをくつがえすことは不可能に近いが、作戦の結果が明白である以上、これを止めなければならぬという一途な信念から、彼は今一度再考を促すべく参謀長室へと向かった。
参謀長室前の坑道で立ち話をしていた牛島司令官と長参謀長に、八原は自論を展開した。攻勢は兵を死なすだけに終わるということを切々と訴えた。八原の目からは涙がしたたり落ちた。
牛島司令官と長参謀長は顔を見合わせたまま一言もしゃべらなかった。
(2009年「城北文芸」42号)
五月四日の反転攻勢は八原の予想したとおり、失敗に終わった。
夜間に来襲する日本の爆撃機は沢山のサーチライトに照らされ、対空砲火にさらされた。落とされた爆弾は夜間のため狙いが定まらず、大部分が空振りに終わった。しかし、特攻機による体当たり攻撃で駆逐艦リトルと揚陸艦一隻が沈み、機雷敷設艦や揚陸支援艦など数隻が損害を受けた。
那覇から暗い海を渡ってきた数隻の艀はパトロール中の米巡洋艦や駆逐艦などに発見され、銃撃を受け、あわてて、近くの海岸に上陸し、そこにいた海兵隊の部隊に雄叫びを上げて切り込んだ。海兵隊の水陸両用戦車がそれを追いかけ、上陸部隊を挟み撃ちにした。五百人の上陸部隊が射殺された。
東海岸では海軍のパトロール艇が日本の舟を発見した。米軍は多数の照明弾を発射し、夜を昼に変えてしまった。四百人の上陸部隊が殲滅された。
前日の夜から砲兵隊が敵陣地に向けて砲撃を開始した。その砲弾の数は一万三千発以上に達した。砲兵隊の砲撃に支援され、歩兵部隊が早朝丘を制圧し、米軍陣地に切り込むはずだったが、夜が明けると、米軍の艦砲射撃や迫撃砲により、死傷者続出となってしまった。南部の部隊を増援した上での総攻撃だったが、あっという間に日本軍は全軍の三分の一に当たる精鋭部隊を失ってしまった。
高級参謀八原大佐は自分が命がけで反対しなかったからこうなってしまったんだと自分を責めた。牛島司令官からすぐに作戦中止の命令が下った。司令官は八原に自身の不明を恥じ、今後は八原の計画どおり作戦をすすめるよう彼に命じた。
ヨーロッパ戦線では、ついにナチスドイツが追い詰められ、ヒットラーは四月三十日にベルリンの地下司令室で愛人と服毒自殺を図った。五月七日にドイツは連合国と無条件降伏の文書に調印した。日本の同盟国はこれですべて崩壊した。ドイツ降伏の一報が五月十日ごろ沖縄の洞窟陣地にも伝わった。
八原は、いよいよ日本の敗戦も時間の問題だと思った。軍のお偉方の保身のために日々民衆や将兵の命が無駄に費やされていくとしたら、早く終戦の決断をすべきだと八原は強く思った。だが、頑迷な軍の上層部が戦闘を放棄するとは考えられなかった。
ちょうどそのころ、神参謀に本土帰還の命令が下った。沖縄戦の戦況報告と航空部隊による米艦船攻撃の増援を直接大本営に直訴するのがその任務であった。八原は今まで何かにつけて書きとめたメモ帳を紙袋に入れて、元陸軍中将である妻の父に届けるよう神少佐に託した。
酒宴の折には酒を注いで回っていた司令部勤務の女性たちも洞窟から撤退することになった。彼女たちは自分たちも始めから死ぬ覚悟だったと、口々に八原に不平を言った。
神少佐は摩文仁の沖から水上飛行機で本土に脱出することになった。夜陰に紛れて、糸満の漁夫の刳り舟で摩文仁の海岸に行き、岩陰に隠れ、じっと水上飛行機が到着するのを待った。水上飛行機は二度ほど摩文仁の沖に着水した。隠していた刳り舟で早く行きましょうと漁夫たちは言ったが、神少佐は危ないと言って、なかなか出ようとはしなかった。そのうち決死の敵中飛行を敢行した水上飛行機はどこかへ飛び去ってしまった。
すると、神少佐は刳り舟で徳之島まで行けと漁夫に命じた。とんでもない、わしらのような年寄りにはとてもできないと五十代後半の漁夫たちは拒否した。若いものにかえてくれと言う。そこで、糸満の若い漁夫上がりの防衛隊員が集められ、ぬかる雨のなか夜中歩いて摩文仁にやってきた。
その後、一艘の刳り舟は夜中摩文仁岬を回って島の東海岸を北上し、徳之島へと黒潮に乗り、沖縄脱出に成功したのだった。
米軍通訳のマイケルは後方のベースキャンプで怪我人が次々と運ばれるのを見ていた。腕や足を吹き飛ばされ、痛々しい者もいた。
捕虜収容所には日本兵の捕虜が次々と送られてきた。日本兵は捕虜にならないように、最後まで戦って死ぬように教育されていたが、一旦捕虜になってしまうと、極めて従順で協力的になる者がほとんどであった。捕まったらどんな拷問が待っているかわからない。沖縄では米軍に捕まったら、男は戦車のキャタピラに踏み潰され、女は強姦されると吹聴されていた。ところが、実際は、傷の手当てを受け、十分な食料が与えられる。マイケルのような日本語をしゃべる米兵には日本人はすぐに打ち解けてしまった。捕虜となって日本に帰っても村八分になるのが関の山である。どうせ非国民である。国民でないと言われているのであれば、米兵に協力してどこが悪いのかであろう。捕まった後の教育がなされていなかったということらしい。マイケルが日本兵の捕虜の話を聞く内に、日本軍の洞窟陣地の様子がわかってきた。日本軍は死ぬまで頑強に戦うつもりであるらしいことがわかってきた。
沖縄は雨期に入っていた。沖縄特有の土砂降りの激しい雨が急に降ってきた。雨は断続的に何週間も続いた。行軍中の米兵は常にびしょぬれ状態で、ポケットに入れた肌身離さず携帯している家族からの大事な手紙はインクが滲み、読めなくなった。タバコは水浸しで使えなくなった。ヘルメットの中に入れて確保するしか術がなかった。折りたたみナイフは錆びて動かなくなった。銃身は常に下を向けていないと雨水が銃口に入り、青黴が付着した。銃創の弾丸はくっついてしまった。機関銃のベルトから弾丸を取り出し、油を塗って手入れをするのが米兵の日課であった。
特攻機を伴った日本軍の航空機による米艦隊への攻撃は数は少なくなってきたが、いまだに続いていた。特に雨の日にそれは現れた。雨雲が邪魔をして最新鋭の米軍のレーダーシステムがうまく働かないのだった。
嘉手納と読谷の飛行場から米海兵隊のコルセア戦闘機が日本軍機を迎え撃った。コルセア戦闘機は地上軍の戦闘を援護したり、レーダーシステムを守るのが主な任務のはずだったが、このため、地上軍の援護から外れることになった。
日本軍は菊水作戦と称し、沖縄の米軍基地および沖縄周辺に展開する米艦隊に対し、十度にわたる航空攻撃を行った。通常の爆撃機とともに、体当たり特攻機や一式陸攻機の下に取り付けた人間ミサイル「桜花」など総数にして数千機を出撃させ、空母バンカーヒルやエンタープライズなどを破壊し、損害を与えたが、航空母艦や戦艦を撃沈することはできなかった。撃沈できたのは輸送艦などの反撃力の弱い小型の船のみであった。
首里には、軍司令部の壕の他に、新聞社の壕と師範学校の壕、県庁の壕などがあった。新聞社の壕には朝日新聞支局長や、毎日新聞支局長、沖縄新報の社長の他記者等がいた。壕の中には活字台や印刷機があり、陣中新聞をつくらされていた。新聞社の壕と師範学校の壕とは奥の方でつながっていた。師範学校の学生や教師は、男は鉄血勤皇隊として斬込隊や作業隊、宣伝隊等に編入されていた。女は従軍看護婦となって軍と行動を共にしていた。
壕の地下深くには地下水がたまっていた。それを汲んで、高温多湿の壕内に蓄えてあるベトついた米を炊いた。十万人の将兵が数ヶ月食べていけるだけの食料が壕の中や各地の食料集積所に備蓄されていた。
食料を食べれば排泄をしなければならない。便所は壕の出口から外に出て、通路の突き当たりに穴が掘ってあるところだった。昼間は米軍の攻撃が激しいので、なるべく我慢しているが、それでもたまらなくなり、出て行くことになる。一応菰で囲いがしてあったのだが、それも爆風で飛ばされてしまい、汚物が穴からあふれているところに四、五人が並んで尻を剥き出しにしている光景が日常化していた。男も女もなく、すばやく排泄を終えると、逃げるように戻ってきて、下着を引き上げた。
やがて、県庁の壕にいた島田知事は、軍司令部から「非戦闘員は首里から即刻立ち退け」という命令を受けた。知事は直ちに連絡のつく市町村長を集め、緊急市町村長会を開いた。
招集状を受け取った市町村長は、各々の壕を出て、砲弾の飛び交う中、決死の行進を開始し、首里の県庁の壕にたどり着いた。上空には照明弾が輝き、真昼のような明るさだった。島田知事はじめ、各課長、警察署長、市町村長など百人ほどが集まり、灯火の下で会議を始めた。
軍司令部からは戦果を強調する話がされ、士気を阻喪させるような利敵行為をさせないよう、警戒してもらいたい旨発言があった。
島田知事は、日本本土からの激励電報を披露した。食料を増産するようにとの意見が次々と出された。
米軍は南部からの上陸作戦をしなかった。米軍司令部内で検討されてはいたが、自軍の人命損傷を最小限にとどめることを優先する米軍の戦略から実施は見送られた。
南部の海岸は中部のような砂浜が長く続く海岸線がなく、切り立った断崖絶壁や岩場が続いていた。日本軍は二個師団を南部に置き、米軍の上陸に備えていた。米軍はたびたび南部湊川沖に戦艦や戦闘機に護送された輸送船団を展開し、上陸すると見せかけたが、そのたびに撃退された。日本軍は反転攻勢のため、この南部を守っていた二個師団を北上させた。
米軍はまた、日本軍の神風攻撃を防ぐため、B二九爆撃機を九州各地に送り、日本軍の航空基地を叩いた。滑走路や誘導路に穴をあけ、格納庫を破壊した。
一万メートル上空から爆弾を落としている分にはB二九は無傷でいられたが、それでは爆弾は当たらない。低空で爆弾を落とせば、日本軍機に追いかけられることになった。結局、二十四機のB二九を失うことになったが、九州各航空基地に壊滅的損害を与えた。
とはいえ、飛行場にあいた穴はすぐに修復されてしまい、飛行機も隠してあったので、相変わらず、特攻攻撃は継続された。
米軍は序々にではあるが、一つづつ丘を制圧し、首里に迫っていった。その際、一番威力を発揮したのが、火炎放射器であった。中でも、戦車の砲身部分を火炎放射器に改造した新兵器の威力は絶大であった。
歩兵を伴った火炎放射型戦車が日本軍の洞窟陣地に近づくと、洞窟の坑口に、火炎放射器で、ナパームとガソリン等を混合した液体を火炎とともに流し込むのだった。弾丸は衝立があれば、そこで止まったのであるが、この火の点いた液体は中に浸み込んでくるのだった。日本兵は洞窟の奥へ避難せざるをえなかった。すると、歩兵が丘の頂上に登り、頂上に開いている洞窟の通気口からガソリンを流し込んだ。これで、洞窟内の日本兵は一気に壊滅した。洞窟から飛び出した日本兵は撃ち殺された。
シュワブ一等兵は、火炎放射器をつかい、自己の生命もかえりみず、丘の正面に進み、日本軍の機関銃陣地に攻撃をしかけた。日本兵の銃撃によって味方の海兵隊員数人が死傷したにもかかわらず、前進を続け、日本兵多数を殺害し、戦死した。また、ハンセン二等兵は、自己の生命をかえりみず、バズーカや手榴弾をつかい、匍匐前進し、丘の中腹にある日本軍のトーチカを破壊した。日本兵の銃撃でバズーカを破壊されるや、ライフルを手にし、丘の頂上まで登り、弾がなくなるまでライフルを撃ちまくり、四人の日本兵を撃ち殺した。さらに手榴弾で敵の迫撃砲陣地を破壊し、日本兵八人を殺した。両人の名前は、戦後、沖縄の米軍基地の名前(「キャンプシュワブ」「キャンプハンセン」)としてそれぞれ残されることとなった。
五月四日の総攻撃で砲弾を大部分使い果たした日本軍は、つかう砲弾の数を制限せざるをえなかった。ダイナマイトを抱えて戦車の下にもぐりこみ、自爆するという戦法しか残された道はなかった。これは戦車の陰にいる歩兵によって撃ち殺され、成功率は小さかった。
安謝川(あじゃがわ)を渡河した米軍は那覇に通ずる街道沿いの天久台(あめくだい)を攻撃した。この天久台の戦闘は激しいものがあり、アメリカ軍は日本軍の逆襲を受け、料理係まで動員せざるをえなかったが、部隊の大半が死傷するというはめになった。援軍が到着し制圧するまで十日を要した。そして、沢岻(たくし)高地を制した米軍は大名(おおな)渓谷にも火炎放射型砲身に改造した十数台の戦車を先頭に入り込んできた。戦車の後方にはライフルを構えた歩兵が戦車を守るために立っていた。洞窟陣地から戦車に向かって迫撃砲が飛んできた。歩兵がライフルで応戦した。日本兵も陣地から飛び出してきて、白兵戦を展開した。決死の肉弾戦を敢行し、爆弾を抱えて戦車に向かって行った。一人の兵士が米軍戦車のキャタピラの下に飛び込み、戦車を破壊した。しかし、他の戦車はじりじりと洞窟との距離を縮めて行き、丘の中腹の坑口に火炎を放射した。丘の裏側にも火炎がとどき、日本軍の砲撃が止まった。後方に待機していた海兵隊の部隊がバズーカ砲や火炎放射器、手榴弾、ダイナマイトで武装し、洞窟の開口部やトーチカを攻撃した。泥だらけになりながら、味方の歩兵の援護射撃を受けながら、日本軍との白兵戦を敢行し、丘の頂上まで登っていった。丘の裏側の斜面から発射される臼砲を手榴弾や迫撃砲をつかって駆逐した。丘の頂上の通気口から火炎放射器の燃料を流し込んだ。
天久台が制圧されると、米軍はシュガーローフと名づけた高地を攻撃した。ここでの戦闘は熾烈で、米軍は幾度となく撃退を余儀なくされ、数千人の死傷者を出し、占領するまでに五日を要した。
シュガーローフが占領されると、首里の日本軍司令部が戦車砲や重機関銃の射程距離に入った。ここに至って、牛島司令官は、主力部隊の南部への撤退を命じた。連日どしゃ降りの雨が続いていたおかげで、隠していたトラックをつかって、米軍に気づかれることなく、主力部隊は南部に撤退することができた。
天久台への砲撃で戦果を挙げていた小禄の海軍部隊は重火器を自ら破壊し、南部に撤退を開始した。その後、牛島司令官より、元に戻るようにとの命令を受けた。この間の命令伝達、意志疎通の不手際は大田少将以下数千人の海軍軍民にとってたいへん悔やまれるものであった。また、撤退の際に、陸軍の部隊が洞窟にいた民衆を追い出している姿を目の当たりにして、大田少将は憤りを覚えた。軍隊は何を守るためにあるのか。
アメリカ軍の若い兵士たちは東京から発信される英語の短波放送を聞くのが楽しみだった。若い女性アナウンサーの声を聞きながら、どういう人が話しているのだろうと想像するのだった。アメリカ軍の士気を阻喪させるための謀略放送であったが、故国の流行歌も放送していたので、楽しんでいた。
米軍は那覇から渡河して小禄飛行場になだれ込み、迂回して南側から海軍の洞窟陣地を攻めた。海軍司令部は孤立してしまい、撤退することもままならなくなってしまった。最後は火炎放射器で洞窟の内部が焼け焦げることとなった。ただ、この海軍の洞窟は通路をわざと狭くして体の大きな人間は入り込めないようになっていたのと、蛇行させてあったため、火炎が奥まで届かなかった。大田少将以下の将兵は脱出できたものを除き、洞窟の中で自害した。
大田少将は自害することになる前に大本営海軍次官宛てに以下のような電報を打った。
「左の電文を次官に御通報方取計をえたし。
沖縄県民の実情に関しては県知事より報告せらるべきも県には既に通信がなく、第三十二軍司令部又通信の余力なしと認められるに付、本職県知事の依頼を受けたるにあらざれども現状を看過するにしのびず、これにかわって緊急御通知申し上ぐ。沖縄島に敵攻略を開始以来、陸海軍方面防衛戦闘に専念し、県民に関してはほとんどかえりみるに暇なかりき。しかれども、本職の知れる範囲においては県民は青壮年の全部を防衛召集に捧げ、残る老幼婦女子のみが相つぐ砲爆撃に家屋と財産の全部を焼却せられ、わずかに身をもって軍の作戦に差支なき場所の小防空壕に避難、なお、砲爆撃下‥‥風雨にさらされつつ、乏しき生活に甘んじありたり。しかも若き婦人は率先軍に身を捧げ、看護婦、烹飯婦はもとより、砲弾運び、挺身斬込隊すら申出るものあり。所詮、敵きたりなば、老人子供は殺さるべく、婦女子は後方に運び去られて毒牙に供せらるべしとて、親子生き別れ、娘を軍衛門に捨つる親あり。看護婦に至りては軍移動に際し、衛生兵すでに出発し、身寄無き重傷者を助けて‥‥真面目にして一時の感情に馳せられたるものとは思われず。さらに軍において作戦の大転換あるや、自給自足、夜のうちにはるかに遠隔地方の住民地区を指定せられ、輸送力皆無の者、黙々として雨中を移動するあり。之を要するに、陸海軍沖縄に進駐以来、終始一貫、勤労奉仕・物資節約を強要せられて‥‥一木一草焦土と化せん。糧食六月いっぱいを支うるのみなりという。沖縄県民かくたたかえり。県民に対し、後世特別の御高配を賜らんことを」
(2010年「城北文芸」43号)