一句鑑賞

台風は過ぎ

台風でした。ほぼ予想進路でした。

未明に宮崎から熊本、有明海を北上して佐賀県唐津市から対馬海峡方面へ抜けて行きました。

私の所は未明からでしょうね雨が降り始め、午前中はしっかり振りました。

風は思ったほど強くありませんでした、たぶん風速20mぐらいのが何度か吹きました。

夕食を作って外に出てみると雲の切れ間に青い空が見えます・・・通り過ぎたな。

ということで夜のウォーキングも涼しくて快適でした。汗もあまり出なかった・・・


 

仏壇周りを引き出しなど片付けていますとそれは古いものが出てまいります(-_-;)

祖父がシベリア出兵に戦役についていた時の感謝状?が入っていた黒塗りの漆に金の字で、大正三年から六年の戦役と書いてありまして、表題はちょっと読めないのです字体が独特のものです。勲という字ともう一字が読めなくて・・・難しい字体です。いつか調べてみよう・・・

箱の中身は空なんです、100年とすこし前のことです。

それから通称江戸版画と呼ばれるものが幾枚か出てきております。これを新たに収納する紙封筒のクッション性のあるものを探して購入しました。封筒に入れ弟に渡そうと思ってます。その中の2枚が・・・明治の初めごろの版画なんですね・・・新東京名所図と書いてあり浅草とどこかの景色です。

明治はその後に、活版印刷となりますが日本ではまだ技術がありませんでしたね。

で明治政府がのお札を発行するときにイタリアの技術者だったそうです。百円札ですが、大金ですよね。肖像は神功皇后ですが、イタリア人画工が書いたのでヨーロッパ的お顔になっています。しかし神功皇后のモデルとなる写真などはありませんね。

その像が近所の八幡宮にあります。室町中頃の作です。何故?此処にあるのかは、私の想像ですが・・・長くなりそうですが書きます(笑)

足利尊氏が九州に逃れてきておりましたが、その後兵を起こします。それからのことは皆さん歴史がお詳しいでしょうから書きません。

問題は太宰府で挙兵したと言われておりますが、戦勝祈願は宇美八幡宮で行ったのではないかと信じております(-_-;)

と言いますのが大宰府は菅原道真公ですが、宇美八幡宮は神功皇后が応神天皇をお産みになった所です。3世紀初めですが・・・それから西暦580年に宇美八幡宮が大和朝廷により創建されております。勝手に作るわけにはいかないので、たぶんその時の権力者です。

ご存知のように応神天皇は八幡神といわれ、武将が戦場で自らを鼓舞する南無八幡大菩薩の八幡です。ですから足利尊氏も応神天皇生誕の地で戦勝祈願を行った・・・(-_-;)

で見事に足利幕府となるのですね、その後に仕置きなどとなったときに戦勝祈願をおこなったかの神社へ神功皇后像を寄進したのではないかと・・・同時に神社のリニューアルといいますか、ほぼ全面的にやり替えが行われております。とても瀟洒な朱塗りの神社だったですが戦国の世に消失しております・・・絵図は残っています。立花宗茂さんなどが跋扈ていたころですね。

百円札の話しですけど・・・肖像画のモデルになったそのお顔は25年に一度の御開帳でしか見れませんが、わが家には写真が(どおにでもあるか)あります。またその紙幣のモデルになったいきさつを記事にした新聞の切り抜きも出てきました。

なんかこのまま資料館にでもしようか(笑)って感じです。

焼失した神社を再興したのは黒田公です。とくに三代目はご尽力だったと聞きましたが・・・!!?

数年前に柳川藩家老のご子孫さまが、わが店にふらりと来られて・・・柳川から来たのです、十時(ととき)です・・と言われて!!驚きました。私、柳川を歩いて十時邸が残されて公開されているのを知っておりましたから、柳川の十時様!と思わず言いましたよ(笑)

そして吾が祖先が建立したのですと一言仰ったのにはびっくり。後でいろいろと考えたのですが、黒田は大藩です、建立を柳川藩に行わせたのかもれないと思っております。黒田は秋月藩に長崎出島の奉行をさせておりますから。

いろんな知識がこの頃になって繋がりなど分かってきました。古文書をひも解くわけではありませんが、自分なりに歴史に思いを馳せるのもいいものです。

長くなりました・・・

どうも、キーを打ってもその通りに文字にならない?おかしな現象があります。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「古代のロマンへ」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事