昨夜の記事の石橋秀野の本ですが私の所有ではありません。
ある方からお借りしてその後お会い出来ないまま手元にあるのです。いつかお返しをしなくてはと思うばかりでした、送れるのものなら一筆書いて投函すればいいのですが住所さえ知らなかったのです。
昨夜はなんとはなしにその一冊を、納めていたビニール袋(ブックストアのあれです)から出したのでした。
その方とはメールで俳句の指導をしていた時期がありました。
送られて来た句を分からない句だと返すと、何故だ情景はこうなんですと強い調子で返事がありました。それからはいい句だけにコメントしていましたが、ある句を褒めたときは自分はなぜいい句なのか分からないと・・・
俳句作品とはそういったもので、力を込めて作った句への評価は低くあるいは無視され、なんでもないことをそのまま詠んだ句は自己を越えたところで評価される。
その方とは二三度お会いしその時に持参された本なのですが、私が読みはじめたら止まらなかったんです。お貸ししますとなったままで今になって詳しい住所も聞いていなかったことを悔やんでいます。
本の中ほどに、岡城跡観覧券が挟まっていました。
こういったこともですが、いろいろと区切りというか処理をしないままのことも多々あります。昨年は、ちょっと(結構大きな)した決断を下したこともありました。
断捨離といいますが、物ばかりではありませんね、自分を取り巻くもの全てに対応して行かないといけません。向き合って逃げずに、これが断捨離かな?・・・結構やってるんですけどなかなか終わらないようになっているんですね現世は。
立春の雪の深さよ手毬唄 石橋秀野
ご本は大切にお返しできるときまでと思っておりますが、困ってもおります。
おやすみなさい