ハイナンNETの日常

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かにた婦人の村に、プチ・フィールドワーク

2009-05-07 16:57:34 | メンバーのつれづれ
さる5月4日、千葉県の館山にある「かにた婦人の村」に、メンバー有志8名で、プチ・フィールド・ワークに行ってきました

ここには、元日本人「慰安婦」の慰霊碑が立っています。ここで暮らしていた元日本人「慰安婦」城田すず子さんの希望で、1986年に建てられたものです。

メンバーの大多数が、行ってみたいと思いながらもなかなか足を運べていなかったので、今回、満を持しての訪問でした

館山駅からタクシーで約10分。急な坂を車でのぼり、車から出て振り返ると、町&海が下界に広がっておりましたここは元海軍の砲台跡。本土に上陸しようとする敵艦隊を、ここで食い止めようというスポットです。クリアな視界なのもうなずけます……。

かには婦人の村では、この山二つ、約3万坪の敷地の中で、数十名の女性とスタッフが暮らしています。この日は施設長の天羽道子さん、お時間を割いて案内して頂きました

1956年に売春防止法ができて以降、それまで性産業に従事してきた女性のなかで、行き場のない人、家族のない人、生活できない人などを収容する施設ができました。東京都の委託で都内に7施設ができました。そのなかで「いずみ寮」は、特に他のどの施設でも生活が難しく、なおかつ社会復帰も難しい女性たちを収容しました。彼女たちにとって、さらに長期的なケアが必要だということで、弱い立場の者が助け合って生活できる場がほしいということで、できたのが、この「かにた婦人の村」です。

城田すず子さんは、いずみ寮時代に入所しました。幼い時に家から売りに出され、長年の娼婦と「慰安婦」の生活で体がボロボロになりました(詳細は城田すず子著(聞き書き)『マリヤの讃歌』をお読みください
ある日、頭を洗おうと水の入ったバケツを持ち上げた途端に、ポキッと背骨が折れ、それきり寝たきりになってしまいました。かにたに来てからは、まつば杖で歩くことができるようになりましたが、それでも他の人々と一緒に作業するほどには動けなかったので、代わりにたくさんの手紙や日記を書いていました。

そして1984年になると、自分が寝ても起きても、慰安所に連れて行かれた人たち、捨て置かれた人たちの声が聞こえてきて眠れなくなり、なんとか慰霊してほしいと、創設者の深津さんに頼み、はじめは山の上に、ひのきの角材に「鎮魂の碑」と書かれた碑を建てました。これが朝日新聞の天声人語やTBSラジオの番組で紹介され、全国各地からたくさんの寄付があつまり、2年後、御影石で作った碑を建てることができました。石碑には「噫(ああ) 従軍慰安婦」という言葉が刻まれました。その2年後に、韓国から元「慰安婦」の金学順さんが名乗りをあげることになります。

この慰霊碑の前では、毎年8月15日に、式典を行っているそうです

山の中腹、住宅棟と慰霊碑の間をつなぐ坂道の途中には、教会堂が建っています。
今回この教会堂にも入らせて頂きました。
碑も、この教会堂も、それをつなぐ道も、すべて自分たちの手作りだそうです。
教会堂の下には、ここで生涯を閉じ、引き取る先のない方のお骨も眠っています。お骨の前に飾る名前のプレートも、自分たちで陶器工場(こうば)で焼いたものです。創設者の深津さんご一家もここに眠っています。

道すがら、夏ミカンの木がたくさんあり、実がたわわになっていたり、畑にじゃがいもやいろいろな野菜が植えてあったりもしました

天羽さんは、いずみ寮時代からずっと、長期収容の方々と共に暮らしています。
かにたのことを「世の中の役に立たないと言われたり、疎外されてきた人が多いから、ここでは役に立たない人はいないんだと言」い、その生活を、「規則で縛るのではなく、個性を活かして、共に生きる社会をつくること」にあるとおっしゃっていました。

人生をかけて、一緒に生きること。(夫婦とか恋人とかじゃなくて……!)

これが、一番難しいことで、でも最も大事なことなんじゃないかと思いました。

天羽さんの人生の半分もまだ生きていないヒヨッコですが、この生き方を、頭の片隅から忘れないようにしよう。そう誓って帰途についた私たちでした……(いや、最後の方は個人的感想ですがw)


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