村上春樹の原作小説『女のいない男たち』は文庫で2017年に読んでいたけど、映画が話題になっていた頃は観そびれました。
すごく映画的に面白く再編成されていて良かったです。原作小説よりいいという評判どおりだなと。
小説がよくないというわけじゃないけど、主人公の家福(かふく)という中年男性は、他者をどこか上から品評する癖がある人物で、そりゃあ奥さんは他の男と楽しみたくもなるだろうな、という感じでした。
対して映画は、妻の秘密と自身の痛みに向き合おうとする姿を描いていて、小説は原案という感じがするくらいでした。
監督は濱口竜介、脚本は濱口竜介と大江崇允。
カンヌ国際映画祭で脚本賞、アカデミー賞で国際長編映画賞ほか受賞多数。
***(以下はラストまで書いちゃってる感想)
舞台演出家で俳優の家福(西島秀俊)は、脚本家の妻、音(霧島かれん)と深く愛し合っている。映画は濃厚なベッドシーンから始まるし、結婚20年以上の夫婦とは思えないほどの熱いキスをしょっちゅうしている。見ている者に、二人の愛を疑う余地はない。
だが、家福はあるとき自宅で妻がほかの男と関係を持っているところを目撃してしまう。
何事もなかったように立ち去る家福だったが、あるとき妻から「(あなたが)帰ったら話がある」と言われ、夜に帰宅すると妻は倒れておりそのまま逝ってしまう。
小説では、妻は子宮癌で苦しみながら亡くなるのだけど、帰宅したら死んでいたというほうが鮮烈だ。そのほうが言い訳がきかないし、「あのとき、少しでも早く帰宅していれば。妻とちゃんと向き合っていれば」という後悔が増すから。
家福は、妻がなぜ自分と愛し合っていながら他の男と寝なくてならなかったのか、理解することはもちろん、本人に問いただすことも責めることもできなくなってしまった。
そのなかで、家福が演出を手掛け出演もする舞台『ワーニャ伯父さん』が大きな影響を与えてくる。
この劇には、ある女性を貞淑ではないとなじるなど、家福の実人生の傷口をえぐるようなセリフが満載なのだ。本当に上手いこと脚本に組み込んでいると思って感心してしまった。
妻の死から数年後、演劇祭の運営側から運転代行を利用するよう要請され、家福は渋々了承する。
三浦透子演じるドライバーのみさきは、小説の母親は飲酒運転で亡くなるが、映画では土砂災害で家が潰れて、娘だけが生き残っている。
これも、この若い女性を「あのときどうして私は母を助けなかったのか」という激しい葛藤の中に置くための設定で、よくできていると思う。「私は母が憎かったけど、それだけじゃなかった」という言葉には、人の心の奥深さが感じられた。
終盤に二人が抱き合うシーンがあるけれど、これは男女関係のそれではなくて、傷を分かち合うための抱擁で感動的だ。
どんなに辛いことがあっても人生は続く。けれどわたしたちは懸命に生きて行きましょう、という『ワーニャ伯父さん』のセリフがここでも呼応していたように思う。
さいごは、二人の関係やその後はどうなったのか明確な説明はないが、適度な距離感で良好な関係性が続いていることは示される。
そこは韓国で、みさきが一人で家福の愛車に乗って買い出しに行っている。韓国人の演劇関係者夫婦の愛犬を車に乗せて。運転している彼女は、それまで見せたことのない明るい微笑みを浮かべている。
たぶん、家福の『ワーニャ伯父さん』の舞台は成功し、演劇関係者の韓国人の夫婦とも親しく交流しているのだろう、と私は思った。
少し重荷を下ろした二人の軽やかな気持ちが伝わってくるような、爽やかな終わり方だった。
すごく映画的に面白く再編成されていて良かったです。原作小説よりいいという評判どおりだなと。
小説がよくないというわけじゃないけど、主人公の家福(かふく)という中年男性は、他者をどこか上から品評する癖がある人物で、そりゃあ奥さんは他の男と楽しみたくもなるだろうな、という感じでした。
対して映画は、妻の秘密と自身の痛みに向き合おうとする姿を描いていて、小説は原案という感じがするくらいでした。
監督は濱口竜介、脚本は濱口竜介と大江崇允。
カンヌ国際映画祭で脚本賞、アカデミー賞で国際長編映画賞ほか受賞多数。
***(以下はラストまで書いちゃってる感想)
舞台演出家で俳優の家福(西島秀俊)は、脚本家の妻、音(霧島かれん)と深く愛し合っている。映画は濃厚なベッドシーンから始まるし、結婚20年以上の夫婦とは思えないほどの熱いキスをしょっちゅうしている。見ている者に、二人の愛を疑う余地はない。
だが、家福はあるとき自宅で妻がほかの男と関係を持っているところを目撃してしまう。
何事もなかったように立ち去る家福だったが、あるとき妻から「(あなたが)帰ったら話がある」と言われ、夜に帰宅すると妻は倒れておりそのまま逝ってしまう。
小説では、妻は子宮癌で苦しみながら亡くなるのだけど、帰宅したら死んでいたというほうが鮮烈だ。そのほうが言い訳がきかないし、「あのとき、少しでも早く帰宅していれば。妻とちゃんと向き合っていれば」という後悔が増すから。
家福は、妻がなぜ自分と愛し合っていながら他の男と寝なくてならなかったのか、理解することはもちろん、本人に問いただすことも責めることもできなくなってしまった。
そのなかで、家福が演出を手掛け出演もする舞台『ワーニャ伯父さん』が大きな影響を与えてくる。
この劇には、ある女性を貞淑ではないとなじるなど、家福の実人生の傷口をえぐるようなセリフが満載なのだ。本当に上手いこと脚本に組み込んでいると思って感心してしまった。
妻の死から数年後、演劇祭の運営側から運転代行を利用するよう要請され、家福は渋々了承する。
三浦透子演じるドライバーのみさきは、小説の母親は飲酒運転で亡くなるが、映画では土砂災害で家が潰れて、娘だけが生き残っている。
これも、この若い女性を「あのときどうして私は母を助けなかったのか」という激しい葛藤の中に置くための設定で、よくできていると思う。「私は母が憎かったけど、それだけじゃなかった」という言葉には、人の心の奥深さが感じられた。
終盤に二人が抱き合うシーンがあるけれど、これは男女関係のそれではなくて、傷を分かち合うための抱擁で感動的だ。
どんなに辛いことがあっても人生は続く。けれどわたしたちは懸命に生きて行きましょう、という『ワーニャ伯父さん』のセリフがここでも呼応していたように思う。
さいごは、二人の関係やその後はどうなったのか明確な説明はないが、適度な距離感で良好な関係性が続いていることは示される。
そこは韓国で、みさきが一人で家福の愛車に乗って買い出しに行っている。韓国人の演劇関係者夫婦の愛犬を車に乗せて。運転している彼女は、それまで見せたことのない明るい微笑みを浮かべている。
たぶん、家福の『ワーニャ伯父さん』の舞台は成功し、演劇関係者の韓国人の夫婦とも親しく交流しているのだろう、と私は思った。
少し重荷を下ろした二人の軽やかな気持ちが伝わってくるような、爽やかな終わり方だった。