花笑 はなえみ

          呼吸を大切に 呼吸を忘れないで と願っています

聖フランチェスコ(聖フランシスコ)

2013年11月06日 11時29分33秒 | 本棚
こんにちは。今、散歩に行く前に絵本を見てからと思って、絵本を開き朗読しておりました。そうしたら、いろいろと思い出が蘇ってきて、この通り書き連ねてしまいました。

昔々に、聖フランチェスコの激動の青春時代を描いた映画『ブラザー・サン シスター・ムーン』を観ました。
その映画を観た頃は、私自身若くもあり、フランチェスコの魂の繊細さと純粋さにひどく惹かれ感動しておりました。
日本人(歌手:桑原一郎、透明感があり伸びやかな美声)が日本語の歌詞で唄っていたレコードも買ってよく聴いておりました。
お気に入りのフレーズは、愛されるより愛したい空を飛ぶ鳥のように・・・のあたりです。

ここに、今日の散歩の邪魔をした絵本があります。沢山の美しい詩が洗練された美しいイラストと共に表現されています。その中から一篇を抜粋し載せてみました。

小さなもの、弱いもの、
病めるもの、貧しいもの、
迫害と差別に
苦しむものこそ
イエスはこよなく
愛した
わたしもまたかれらを
こよなく愛する
かれらこそ、かけがえのない
わたしの家族

『聖フランシスコ アッシジの光』詩・絵:葉祥明、英仏訳:マリアの宣教者フランシスコ修道会、1999
年1刷、発行所:自由国民社

たからことば 真理のことば 怒り

2013年09月22日 09時19分45秒 | 本棚

岩波文庫中村元訳『真理のことば』のなかに『怒り』というテーマがあります。

227項目から次の詩句が綴られています。

アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙している者も非難され、多く語る者も非難され、すこしく語る者も非難される。世に非難されない者はいない。

ただ謗られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない、と続いていきます。

この詩句には解説がついています。

在俗信者のアトゥラがレーヴァタ長老のところに行って教えを聞こうとしたら、瞑想に耽っていて何も説いてくれなかった。
次にサーリプッタ長老のところへ行ったら、アビダルマに関する論議をやたらに聞かされた。
次にアーナンダ長老のところへ行ったら、ほんの少しばかり教えを説いてくれた。
最後に祇園精舎の釈尊のところへ行ったら、この詩句を語ってくれたのだという。

奥深い釈尊の対応ですね。

沈黙している者とは、レーヴァタ長老のこと 
多く語る者とはとは、サーリプッタ長老のこと
すこしく語る者とは、アーナンダ長老のこと

アトゥラはこの三賢者から希望の回答を得られず腹を立てたんですね。

この三賢者のように、相手の技量に合わせず、あるいは見極められず、だれかれに対しても同じように対応していては大切なことは伝わらないのですね。

怒りにまかせて感情を爆発させているアトゥラに対して、丁寧な解説付きで説明しているブッダの忍耐と智恵と慈悲に溢れた対応は「おおー!」という賛嘆の感情しか湧き出てきません。

現代流に例えれば、クレーマーと最終対応者のごとく、でしょうか。

ちなみにサーリプッタ長老が得意とするところの『アビダルマ』についてはあまり知りませんが、私の手元には『アビダンマッタサンガハ』という書物があります。
これは『原典アビダンマッタサンガハ』の概要書です。

『原典アビダンマッタサンガハ』は、第6回仏典結集によるビルマ版で12巻5000ページくらいのものらしいです。
その7論12巻5000ページの内容を67ページにまとめたものが『アビダンマッタサンガハ』です。

『アビダンマッタサンガハ』は、ビルマでは仏教の初歩学として、出家者必須の書のひとつとのことです。
 私が所持しているのは勿論日本語版(全314ページ)ですが、その道の人に解説していただかないと内容を理解することは極めて困難です。

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昨晩は気分が整っていたので久し振りに法華経を朗唱しました。
第10章法師品は、28章中お気に入りのひとつです。

比喩の文学とも称されることのある法華経ですが、この法師品では教えを説く立場の者の厳しさと心構えと裏づけと方法論と幸いを語っているように思えます。

やはり奥深く感じられます。


百年後

2013年08月11日 19時17分55秒 | 本棚
 インドの詩聖と讃えられるタゴールの詩に心打たれた方は多いと思います。


   いまから百年後に
   わたしの詩の葉を
   心をこめて読んでくれる人
   君はだれか
 


 そんなフレーズから始まる美しい詩『百年後』
 
 こんな詩に出逢ってしまったのだから
 私も、百年前と百年後のこの世界の調和と幸いを祈りつづけていこうと思うのです。


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 2013年4月21日にこのブログを開設して以来多くの方々に訪れていただきました。
 ありがとうございます。

 8/10現在、訪れて下さった方々は1926人、ご覧になって頂いた回数は3419回とのことです。

 みなさまに幸いがあらんことを願い祈ります。

ふしぎな目をした男の子 佐藤さとる

2013年07月22日 10時19分48秒 | 本棚
 こんにちは
 この時期、七夕まつりをやっている街、多いのではないでしょうか。
 昨夕、街はものすごい人出で大賑わいでした。
 どちらかと言えば、お祭りなどの賑わいが苦手な私は、買い物を済ませて早々に帰宅しました。


 最近読んだ本です。
 コロボックルが登場するシリーズものです。


この物語、142~143ページに書いてある、タケルとヒロシの、ふたりの会話が良いですね。

 中学生のヒロシが、水槽の中の水はちゃんと生きていると言う。
 小学3年のタケルは、水が生きてるってことがどういうことか理解できないでいる。

 ヒロシは言う。
 ミジンコが水の中に落ちたゴミや藻のきれっぱしを食べ、そのミジンコをクチボソが食べ、死んだミジンコやクチボソの糞は、水草や藻の肥やしになる。
 だから、水草なんかも生きていける。

 水草や藻は植物だから、日に当たると水中の炭酸ガスを吸ってきれいな酸素を吐き出す。
 その酸素を、ミジンコやクチボソが吸って炭酸ガスを吐き出す。
 こんな風にして命が回っていると、小学生にでも分かりやすいように説明して上げている。

 さらに続けてヒロシは言う。
 丁度良い数だけミジンコが増えて、丁度良い数だけクチボソが育って、丁度良いだけの水草や藻があって、釣り合い、つまり調和が保たれていて、いつまでも水が清んでいると話している。

 そして、ヒロシは、水が死んでいく条件(原因)を言う。
 海や湖や川や池は、このガラスの水槽の中の水と同じだと。
 命は、自然の営み、摂理の中で、うまく回っているのだと。
 ところが、人間が薬を撒いたり、ゴミをぶち込んだり、やたらに魚を取り過ぎたりするから釣り合い(調和)がぶっこわれるのだと。
 水が死ぬ。
 水が死ねば、命も死ななければならなくなるのだと。

(物語では、小学3年のタケルにも理解しやすい言葉が使われています)

 タケルは、ヒロシの話にとても心を動かされた様子。

 最後に、駄目押しのヒロシのお話し。
 このガラスの中の水は、水がきれいなうちに、裏の桜谷用水池から汲んで来た。
 水草も、藻も、クチボソも、ミジンコも。
 だから、桜谷用水池はこのガラスの中でずっと生きていくんだ。
 もとの用水池が死んじまっても。

 まだ小学3年のタケル君は、ヒロシ君の話を聴きながら、何を感じ、何を思い、何を考えたんでしょうね。
 何か思いついたこととか、何か行動しようとか思ったことはあったのでしょうか。

 このページを読みながら、私は、思わず引き込まれてしまいました。
 ヒロシ君は、学校の先生よりお話しがうまいです。

 ほんとうに、タケル君とヒロシ君の成長を見守ってあげたくなりました。

【コロボックル物語】
1.だれも知らない小さな国
2.豆つぶほどの小さないぬ
3.星からおちた小さな人

これから読みたい絵本

2013年07月08日 09時48分40秒 | 本棚
タイトル:おおきな木
作者:シェル・シルヴァスタイン(アメリカ)


この絵本を読んだわけではなく、沢山の方々の感想、レビューを読んだだけです。

大きな木とひとりの少年(ちびっこ時代からおじいさん時代まで)を描いているようです。

この絵本を読んだ多くの方々が、『人間に与え続ける木』、『木から恵みをもらうだけの人間』の姿を感じ取っているようです。

これを、愛と表現するか、甘えと表現するか、切ない形だと表現するか、自然の形だと表現するか、この木のようにありたいだとか、自分は木でもありちびっこでもあるという見方をするか、それはこの絵本に触れた方の自由ですね。


『与える』の意味って、宗教圏によって受け取り方、感じ方が異なるものだとは思います。
私はキリスト教圏の人間ではなく、仏教圏で生まれ、仏教圏で暮らしてきた人間です。
だから、『与える』の意味は、この作者の思い描いているものと違うはずです。

この日本という国で、お布施やお賽銭、募金への協力や寄付金、あるいは、見知らぬ人に道を教えるなどという行いをしたことがない人って、ほとんどいないのではないでしょうか。

『与える』をちょっと難しい言い方で『布施』と言います。

 布施は、仏教では3つに分類されているようです。

 財施は、文字通り物品を与えること、寄付金などもこれに相当すると思います。
 身施は、ボランティアなどの奉仕活動に例えても良いと思います。
 法施は、教えを与える、ブッダの教えを与える、ブッダの法を説くなどです。

 勿論、この3つは何れも見返りなど求めません。
 この3つは、キブアンドテイクではありません。
 それゆえ布施行と言うのです。
 

 この作者は、出版によって財は得たはずですから、財施は当たらないかもしれません。
 しかし、ギブアンドテイクとは言え、出版業に携わる人たちには何かしらを与えていますよね。

 この作者は、サイン会などで、自作の購入者に対して無償でサインをしてあげたのではないかとも思います。
 甘い判定かもしれませんが、少し身施にひっかかっているように思います。

 この作者は、人生で培ってきた学びをこのような本を通して多くの人々に与えています。
 これは、この3つのうちのひとつ、法施に当たる行動を起こしたと、私は思うのです。

 作家だって人間界で生きているのですから、暮らしていくための糧は必要です。
 作家自身の生き様を通して、伝えたいものを描いて、自身でできる限りの『与える』を実践しているように思えるのです。

 微妙な導き方ですが、私の独断と偏見です。
 みなさまは、どのように考えられるのでしょうか。


人間に与え続ける大きな木、大きな木から搾取し続けるちびっこ、まるで、地球と人類の関係における、小さな方程式のようですね。

人間は地球からあらゆるものを利用し続けています。
いつ止むとも知れない欲望の塊のような人類のように思えます。

そして、私も、その人類の、生命の循環のちいさな、とてもちいさな一粒です。

この絵本から感じる取るものは百人百様のようですし、その百人百様の方々も、成長していく過程での受け取り方、その心が変わっていくようですね。


まだ見ぬ絵本を想像しながらで・・何なんですが、この大きな木だって、最初からこんな風に、何でも知ってるような物分りの良い木だったのでしょうか?

この大きな木だって、最初から絵本に登場するような、大きな木ではなかったでしょう。

今は大きな木だって、この大宇宙の中の点のようなこの地球上に生を授かってより、大地から無償の恵みを受け取り、大空から無償の恵みを受け取り、時には大地からこっぴどい仕打ちを受け、大空からもこっぴどい仕打ちを受け、それさえも受け入れるしかなかったのではないでしょうか。

これだけ大きな木なら何百年間か生き続けてきたのだと思いますし、多くの生命の泡沫のようなはかなさも見知っていることでしょう。
そうですね、大いなる悲しみ、心からの喜び、見ているだけの辛さやもどかしさ、痛みや苦しみ、心躍る楽しさ・・そのような、この大きな木の経験はどこにも記されていなさそうですが。

誰が役割を決めるのかは分かりませんが、この大きな木の役割は、一粒の小さな命の役割ではなく、大自然の役割ではないのかなと思いました。

そして、さまざまな人間がいますが、この作者は、大自然のお相手に、ちびっこの男の子を選びました。
そして、このちびっこの男の子は、その役割をしっかりと果たしているようです。

このちびっこの代役として、あなたは、どんな役割を果たしてくれるのでしょうか。
あなたは、このように誰からか与えられたか知れない、あるいは、自分自身で掴み取ったか知れない役割を、どうしたいですか。
この世界に、この描かれた世界に、何か、希望は、願いはありますか。

今生きている、この時にこそ、何かを、次の世代へ・・・・・伝えたいもの、伝えていった方が良いものは・・・・・・私たちは必ず死ぬ者ですから・・・・・そのことだけは忘れてはならないことだと思っています。

私は、これから図書館へ出かけて行って、この絵本を借りてこようと思います。
本田錦一郎訳(1976年 篠崎書林)と、村上春樹訳(2010年 あすなろ書房)を、読み比べてみたいと思っています。

まだ、一読もしたことがなく、今、初めて知ったこの絵本について、何も知らないまま、書き綴ってしまいました。

読み終えた後で、私は、何を思うのでしょうね。
とても楽しみです。