孔子の言葉です。
〇子曰く、「貧にして怨む無きは難く、富みて驕る無きは易し。」
〇読み:しいわく、「ひんにしてうらむなきはかたく、とみておごるなきはやすし。」
〇意味:先生がおっしゃった、「貧しくして他を怨まないというのは難しいことであり、それに比べれば、富んでいておごり高ぶらないのはまだ易しいと言える。」と。
*この文章は、貧にあってもそれを不満に思わずに努めるべきだという意味にも読めないことはありません。しかし、富者がおごり高ぶらないのは比較的容易だと言っていることからすると、この文章は、貧者の苦難を見た孔子が為政者のあるべき姿を要求して語ったものではないかと思うのです。
すなわち、貧者はより生きづらいものだから、為政者は貧者の立場に立って、食を足らすように治めなければならない、と言っているのではないでしょうか。
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前田卓子は、明治38年に上京し、孫文たちの民報社にで働きます。その後、『民報』は発行禁止処分を受けたため、明治43年から、東京市養育院で働きはじめました。この福祉施設東京市養育院は、渋沢栄一が院長をしていたことでも知られます。
卓子は大正3年には利鎌を連れて漱石宅を訪問しています。そして、大正4年、異母弟の前田利鎌を養子としました。
卓子は漱石との関係をとやかく言われることをたいそう嫌っていました。卓子の談話から一部紹介します。
「先生がお歿(な)くなりになってからの事でございますが、或る年の或る婦人雑誌に、何でもわたくしが先生の初恋の女でもあったかのようなことを書いたことがあります。しかも、それがわたくしの口から出たように書かれているのだから堪(たま)りません。わたくしはもうその予告の出た時から雑誌壮に注意を与えて置きましたが、いろいろ詫びて来ながら、とうとう出してしまいました。で、わたくしもかんかんに怒って、利鎌の友人で弁護士になっていらっしゃる下川さんにお願いして、とうとう訴訟を起しました。」
有名人は、とかく噂を立てられるものですが、毅然として対処したこのときの卓子は、すばらしいものだと思います。
また、卓子がしみじみと自分の身の上を語った時、漱石が、「そういう方であったのか、それでは一つ「草枕」も書き直さなければならぬかな」と言ったそうです。それについて、卓子は「本当にわたくしといふ女が解っていただけたのだろうと存じます。」と言っています。卓子は『草枕』の那美さんは那美さんとして、それとはまた違うほんとうの自分を漱石に理解されたことが、大きな喜びであったでしょう。
卓子は、昭和13年(1938年)、赤痢のため病死しました。漱石の一つ年下の卓子は、大正5年に歿した漱石よりも相当長く生きたことになります。
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