ハナの花

そのときどきの出来事や見聞について記します。

夏目漱石の旅 明治30年12月~31年1月⑤ 小天 前田卓子その4(終)   2022.2.10

2022-02-10 15:29:30 | 漱石ゆかりの地
 前田卓子は、明治38年に上京し、孫文たちの民報社にで働きます。その後、『民報』は発行禁止処分を受けたため、明治43年から、東京市養育院で働きはじめました。この福祉施設東京市養育院は、渋沢栄一が院長をしていたことでも知られます。
 卓子は大正3年には利鎌を連れて漱石宅を訪問しています。そして、大正4年、異母弟の前田利鎌を養子としました。
 卓子は漱石との関係をとやかく言われることをたいそう嫌っていました。卓子の談話から一部紹介します。
 「先生がお歿(な)くなりになってからの事でございますが、或る年の或る婦人雑誌に、何でもわたくしが先生の初恋の女でもあったかのようなことを書いたことがあります。しかも、それがわたくしの口から出たように書かれているのだから堪(たま)りません。わたくしはもうその予告の出た時から雑誌壮に注意を与えて置きましたが、いろいろ詫びて来ながら、とうとう出してしまいました。で、わたくしもかんかんに怒って、利鎌の友人で弁護士になっていらっしゃる下川さんにお願いして、とうとう訴訟を起しました。」
 有名人は、とかく噂を立てられるものですが、毅然として対処したこのときの卓子は、すばらしいものだと思います。
 また、卓子がしみじみと自分の身の上を語った時、漱石が、「そういう方であったのか、それでは一つ「草枕」も書き直さなければならぬかな」と言ったそうです。それについて、卓子は「本当にわたくしといふ女が解っていただけたのだろうと存じます。」と言っています。卓子は『草枕』の那美さんは那美さんとして、それとはまた違うほんとうの自分を漱石に理解されたことが、大きな喜びであったでしょう。
 卓子は、昭和13年(1938年)、赤痢のため病死しました。漱石の一つ年下の卓子は、大正5年に歿した漱石よりも相当長く生きたことになります。

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夏目漱石の旅 明治30年12月~31年1月④ 小天 前田卓子その3   2022.1.11

2022-01-11 10:17:28 | 漱石ゆかりの地
 漱石は、今回取り上げた以外にも小天を訪ねています。それは妻鏡子の記憶によると明治31年「蚕のころ」といいます(狩野亨吉・山川信次郎・奥太一郎らと一緒)から、5月~7月ころでしょうか。「なんでも最初か二度めに夏目が参りました時、ちょうど生まれたばかりのすえの利鎌(とがま)さんを見て、顔の赤いのに驚いたとか何とかいうのですが」(『漱石の思い出』夏目鏡子・述、松岡譲・筆録)とあります。
 ここにある利鎌は、前田利鎌のことで、卓子の異母弟にあたります。利鎌は明治31年1月の生まれですから、漱石が利鎌を見たのは2回目の訪問時ということになります。
「生後いくばくもなき幼少の故人[前田利鎌のこと]が、姉卓子に抱かれて漱石等に愛撫され、後年その門に親しく出入せるも亦奇縁といふべし。」と漱石の長女筆子の夫松岡譲が後に描いています。(松岡譲編集『宗教的人間』に付された前田利鎌年譜)
 前田利鎌は、卓子に連れられて大正3年初めて漱石の家を訪ね、それから度々出入りするようになったようです。
 利鎌は、東京帝大哲学科に学び、のちに東京工業高等学校で教えるようになります。
 わずか32歳で夭折したため、生前の著書は『臨済荘子』のみです。もっと多くのものを遺して欲しかったと思います。近頃岩波文庫から出た『臨済・荘子』はこの著書の文庫版かもしれません。
 前田利鎌については、安住恭子さんの著書に詳しく書かれています。
 話が逸れました。 卓子のことはまた次回へ。

  前田利鎌  ↓

   臨済・荘子 岩波文庫 ↓

安住恭子 禅と浪漫の哲学者・前田利鎌  ↓  


 


夏目漱石の旅 明治30年12月~31年1月③ 小天 前田卓子その2   2022.1.10

2022-01-10 15:43:32 | 漱石ゆかりの地
 夏目漱石は、明治39年に『草枕』を書きますが、その舞台那古井は小天の旅を踏まえて設定されています。
 『草枕』の中で、志保田の那美さんが前田卓子をモデルにしたとされますが、卓子の人物像や生活をそのままモデルにしているわけではありません。
 主人公の入浴中、那美さんが浴室に現れる有名な場面がありますが、これは実際には山川信次郎と漱石が入っているところに卓子さんが入って来たということのようです。次に夏目鏡子の『漱石の思い出』(文春文庫)から引用します。
〈ある日夜おそくなってから姉さん[前田卓子]は、その日のことを終わっていざ湯に入って寝(やす)みましょうと思って、女湯の方へ行ってみますと、ぬるくてとても入れません。男湯の方はとのぞいてみますと、もうもうと湯気の立ってるぐあいと言い、誰もいないらしい気勢(けはい)なので、安心して着物をぬいで、浴槽へ石段を踏んで下りかけますと、湯の中でポチャリという音がします。オヤ、誰もいないはずだったのにと立ちどまって、怪しみながら、中をじっと覗ってみますと、くすりとたしかに人の笑う声がします。びっくりして瞳をこらしてみると、驚いたことに夏目と山川さんとが、しきりにおかしさをこらえて、茶目さんらしく灯影の当たらない浴槽の一隅に首だけ出していたというではありませんか。姉さんは真赤になって戸の外へ逃げ出したそうです。すると女中がこれまた裸になりかけていましたが、どうなすったのかとひどいあわて方にびっくりしてたずねますが、姉さんはたまらくなって何も言わず着物をひっかけて逃げ出してしまったということです。〉
 『草枕』の場面とは全く趣を異にしています。下の画像は、『草枕絵巻』作成を主宰した松岡映丘の描いた「湯煙りの女」です。


以下、次へ続きます。


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夏目漱石の旅 明治30年12月~31年1月② 小天 前田卓子その1

2021-09-23 14:55:31 | 漱石ゆかりの地
 小天(おあま)で漱石たちは、前田案山子(まえだ・かがし)の別荘に泊まりました。これは温泉を発見した案山子が作り、旅館を兼ねたもので、長女の卓子(つなこ)がその采配に当たっていました。

 前田卓子、明治元(1868)~昭和13(1938)。漱石は1867年の生まれですから、一つ違いになります。
 父は、豪族の息子で自由民権運動に尽力した前田案山子(かがし)で、槍術(そうじゅつ)に優れ、細川家の槍術指南を務めました。明治23年第1回衆議院議員選挙に当選し、国民自由党を結成しましたが、次の選挙には出ませんでした。『草枕』の志保田の隠居のモデルとされる人です。髯(ひげ)が見事で当時の三美髯(さんびぜん)の一人です。
 卓子は、父の自由民権運動の中で、女権拡張論者の女性たちと知り合う一方、父の方針で武術を習ったりもしました。明治20年、玉名郡の豪農の息子と結婚しましたが、守旧的な夫の考えに合わず一年で離婚。その後、民権運動家と同居しますが、別れて明治29年には小天に戻っていました。このころに漱石が小天を訪れたことになります。
 『草枕』では、卓子は志保田のお嬢さん、那美のモデルと言われます。ほとんどは漱石の創作した人物像ですが、卓子の存在がなければ那美はいなかったことでしょう。
 
 卓子は、波乱に富んだ生涯を送りますが、以下、次回にということにします。

前田卓子 ↓

前田案山子 見事な髯です↓


前田家別荘 ↓



前田家別荘 浴室 漱石と山川信次郎が入浴中に卓子が入って来たことが、『草枕』に脚色されて出てきます。 ↓




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夏目漱石の旅 明治30年12月~31年1月 『草枕』の旅①

2021-09-22 09:31:57 | 漱石ゆかりの地
 漱石は熊本の第五高等学校に勤めていたとき、同僚の山川信次郎と小天方面に旅行しました。いわゆる『草枕』の旅です。
 12月の何日に熊本を発ったのかが不明確でしたが、村田由美さんは、28日午後から出かけたのではないだろうかと述べています。(『漱石がいた熊本』)
     熊本から金峰山(きんぽうざん)を徒歩で越え小天に至ったのですが、途中に峠の茶屋があります。鳥越と野出(のいで)峠の茶屋です。〈「オイ」と声を掛けたが返事がない〉の名文で有名な峠の茶屋ですが、『草枕』には峠の茶屋は一個所しか登場しません。どちらの峠の茶屋をイメージしたものでしょうか? 
 かつて、野出の峠の茶屋の前に「漱石桜」と呼ばれた山桜の古木があったと言います。
 今では、鳥越峠に復元された峠の茶屋を見ることができます。野出峠の方は、未見ですが茶屋公園となっているようです。

復元された峠の茶屋 ↓

『草枕絵巻』の中から、「峠の茶屋」臼井剛夫・画 ↓
『草枕絵巻』は大正15年7月に松岡映丘(まつおか・えいきゅう)ら27名の画家により創られたものです。全3巻。大正15年にお披露目をしてのち永らく行方が分からなくなっていましたが、金沢大学の川口久雄博士が見出して、広く紹介し世に知られるところとなりました。その後、川口博士のご遺族により奈良国立博物館に寄贈されました。複製が限定発行されています。

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