ハナの花

そのときどきの出来事や見聞について記します。

夏目漱石の旅 明治30年12月~31年1月② 小天 前田卓子その1

2021-09-23 14:55:31 | 漱石ゆかりの地
 小天(おあま)で漱石たちは、前田案山子(まえだ・かがし)の別荘に泊まりました。これは温泉を発見した案山子が作り、旅館を兼ねたもので、長女の卓子(つなこ)がその采配に当たっていました。

 前田卓子、明治元(1868)~昭和13(1938)。漱石は1867年の生まれですから、一つ違いになります。
 父は、豪族の息子で自由民権運動に尽力した前田案山子(かがし)で、槍術(そうじゅつ)に優れ、細川家の槍術指南を務めました。明治23年第1回衆議院議員選挙に当選し、国民自由党を結成しましたが、次の選挙には出ませんでした。『草枕』の志保田の隠居のモデルとされる人です。髯(ひげ)が見事で当時の三美髯(さんびぜん)の一人です。
 卓子は、父の自由民権運動の中で、女権拡張論者の女性たちと知り合う一方、父の方針で武術を習ったりもしました。明治20年、玉名郡の豪農の息子と結婚しましたが、守旧的な夫の考えに合わず一年で離婚。その後、民権運動家と同居しますが、別れて明治29年には小天に戻っていました。このころに漱石が小天を訪れたことになります。
 『草枕』では、卓子は志保田のお嬢さん、那美のモデルと言われます。ほとんどは漱石の創作した人物像ですが、卓子の存在がなければ那美はいなかったことでしょう。
 
 卓子は、波乱に富んだ生涯を送りますが、以下、次回にということにします。

前田卓子 ↓

前田案山子 見事な髯です↓


前田家別荘 ↓



前田家別荘 浴室 漱石と山川信次郎が入浴中に卓子が入って来たことが、『草枕』に脚色されて出てきます。 ↓




*ご覧くださり、まことにありがとうございました。




夏目漱石の旅 明治30年12月~31年1月 『草枕』の旅①

2021-09-22 09:31:57 | 漱石ゆかりの地
 漱石は熊本の第五高等学校に勤めていたとき、同僚の山川信次郎と小天方面に旅行しました。いわゆる『草枕』の旅です。
 12月の何日に熊本を発ったのかが不明確でしたが、村田由美さんは、28日午後から出かけたのではないだろうかと述べています。(『漱石がいた熊本』)
     熊本から金峰山(きんぽうざん)を徒歩で越え小天に至ったのですが、途中に峠の茶屋があります。鳥越と野出(のいで)峠の茶屋です。〈「オイ」と声を掛けたが返事がない〉の名文で有名な峠の茶屋ですが、『草枕』には峠の茶屋は一個所しか登場しません。どちらの峠の茶屋をイメージしたものでしょうか? 
 かつて、野出の峠の茶屋の前に「漱石桜」と呼ばれた山桜の古木があったと言います。
 今では、鳥越峠に復元された峠の茶屋を見ることができます。野出峠の方は、未見ですが茶屋公園となっているようです。

復元された峠の茶屋 ↓

『草枕絵巻』の中から、「峠の茶屋」臼井剛夫・画 ↓
『草枕絵巻』は大正15年7月に松岡映丘(まつおか・えいきゅう)ら27名の画家により創られたものです。全3巻。大正15年にお披露目をしてのち永らく行方が分からなくなっていましたが、金沢大学の川口久雄博士が見出して、広く紹介し世に知られるところとなりました。その後、川口博士のご遺族により奈良国立博物館に寄贈されました。複製が限定発行されています。

*ご覧くださり、まことにありがとうございました。










 

旅先の光景;夏目漱石のゆかり(9) 大分県 日田 「日田にて五岳を憶ひ」

2021-09-18 08:09:10 | 漱石ゆかりの地
 引き続き、明治32年1月の旅です。
 耶馬溪から峠を越え、漱石と奥太一郎は1月5日に日田に入ります。

 日田では、平野五岳についての句を詠んでいます。
 「日田にて五岳を憶ひ
   〇詩僧死して只凩の里なりき    」

 平野五岳(ひらのごがく)は、豊後の人。文化8(1811)~明26(1893)。江戸後期から明治時代の僧で、漢詩文・画・書の三分野ともに優れて三絶僧と言われます。広瀬淡窓に詩文を学び、田能村竹田の文人画に影響を受けました。

 五岳が住職をした専念寺に、現在では五岳の像が建っています。 ↓


 

また、そのすぐそばに、五岳の五言絶句の詩碑があります。
詩;五言絶句 「人世貴無事/不争名与功/鳥遷喬木後/幽谷亦春風」
詩の読み; 「じんせいぶじをたっとぶ/なとこうとをあらそわず/とりはきょうぼくにうつりてのち/ゆうこくもまたしゅんぷう」
 詩碑そばの説明板によれば、松方正義や大久保利通から内閣の要職に就くよう誘われたとき、この詩を呈して辞退したということです。 ↓
 

漱石の句碑と説明板もそこにあります。漱石は五岳の清廉な生き方に共感していたのかもしれません。


平野五岳の師、広瀬淡窓が開いた私塾咸宜園(かんぎえん) ↓





咸宜園内で掲示されていた資料です。「咸宜」は、「咸く宜し(ことごとくよろし)」ということで、学ぶ者それぞれのよさを伸ばすとした広瀬淡窓の思いがこもっているとのことです。平野五岳の名も見えます。 ↓


*ご覧くださり、まことにありがとうございます。




旅先の光景;夏目漱石のゆかり(8) 耶馬溪から日田へ 漱石、雪道で馬に蹴られる

2021-09-17 09:32:55 | 漱石ゆかりの地
 相変わらず、漱石明治32年1月の旅の話です。

 1月5日、漱石と奥太一郎は、耶馬溪の守実(もりざね)を発ち峠を越えて豊後日田に向かいます。

守実の日田往還中津街道の標識です。↓

 そのときの句に、
   〇隧道の口に大なる氷柱(つらら)かな
とあり、この隧道(ずいどう)は大石峠隧道(おしがとうずいどう)と言われているものでしょう。今では使用されていないのではないかと思います。読みづらい名称です。漱石はほかにも句を詠みました。
 〇かたかりき鞋(わらじ)喰ひ込む足袋の股
 〇炭を積む馬の背に降る雪まだら
こうした漱石の句は、実感に基づいて素直に詠んだ写実的なもので、ひねくり回していない点が好きです。

 峠を下っているときの出来事を漱石は句にしました。
「峠を下る時馬に蹴られて雪の中に倒れければ
  〇漸(ようや)くに又起きあがる吹雪かな  」

 大変な目に遭ったものです。ただ、漱石には気の毒ながら、何となくユーモラスな感じもします。

 この時のことを漱石は親友の狩野亨吉(かのうこうきち)宛の手紙に書いています。
 「豊後と豊前の国境何とか申す峠にて馬に蹴られて雪の中に倒れたる位がお話しに御座候」

*ご覧くださり、まことにありがとうございます。


 


 
 
 


 





旅先の光景;夏目漱石のゆかり(7) 耶馬溪 賴山陽 擲筆峰(てきひっぽう)

2021-09-15 10:24:18 | 漱石ゆかりの地
 引き続き、漱石の明治32年1月五高の同僚奥太一郎との旅行についてです。

下は旅程の概略です。
1月1日 熊本出発・小倉泊
1月2日 宇佐八幡参詣  四日市泊
1月3日 耶馬溪 口の林(くちのはやし)泊
1月4日 耶馬溪 守実(もりざね)泊
1月5日 日田 吉井(よしい)泊
1月6日 久留米 熊本帰着
(小倉泊、四日市泊は、近砂敦さんの『耶馬溪』に拠ります。)

 耶馬溪には賴山陽が訪れたときに、余りの絶景に筆を投げ出したという〈擲筆峰(てきひっぽう)〉があり、今では記念碑があります。 ↓

 漱石は、耶馬溪について「山陽の賞囋し過ぎたる為(ため)にや左迄の名勝とも存ぜず通り過申候」と友人への手紙に書いています。山陽は賴山陽のことです。
 『草枕』の中で、寺の和尚が、賴春水(山陽の父)、賴杏平(春水の弟)などと比べて「山陽が一番まずい様だ。どうも才子肌で俗気があって、一向面白うない」と言っていますが、これは漱石の見方でもあったようです。
 漱石は、山陽の書は否定的に見ていますが、『日本外史』については否定的には言っていないようです。審美眼が合わなかったのかもしれません。

擲筆峰;戦前(大正?)の絵葉書 「山陽投筆」と下の説明書きの中にあります。 ↓


*ご覧くださり、まことにありがとうございます。