
こんにちは、半次郎です。
新しい年も一週間以上が過ぎ、平常通りになってきました。
年末年始の慌しさにかまけて、あれもこれもと積み残した用事が、一斉に半次郎の背中を押してきます。
直ぐやれば出来ることを、どうしても期限ぎりぎりまで先延ばしにして、期限間際になって焦ってこなしています。
困ったものですね。
さて、年が改まった2009年1月の今月の言葉は、そんな半次郎が落ち込まないですんでいるこの言葉をお届けします。
『 “~すべき” ではなく
“~したい” で
行動しよう 』
“~すべき”という考えで行動をする人がいます。
半次郎が子どもの頃は、そんな考えが主流だったように思います。
『男の子なんだから、女の子を泣かしちゃだめじゃない!』とか、『もうお兄ちゃんなんだから、ちいちゃな子の面倒を見なくちゃだめでしょ!』なんて・・・。
『○○だから、△△すべき』という考えは、行動を促す動機付けには良いのかも知れませんが、言われた方は非常に辛いものです。
“やって当たり前”、“出来て当たり前”というように伝わってきますので、“出来ない自分が悪い”という自責の念に駆られます。
その最たるものが、『給料を貰っているのだから、嫌な仕事もしなければならない。』とか、『どんな安いものでも、買えばお客なんだから、失礼なことを言われても耐えるべきである。』などというおかしなルールの押し付けになったりします。
私たちが行動する上で重要なことは、“~すべき”(shuld)という考えではなく、“~したい”とか“~なりたい”(want)という考え方で行動することです。
そう考えると、すこしだけ余裕のようなものが生まれます。
心が救われる気がするのです。
例えば、『いくら給料を貰っていても、本当に嫌な仕事はしなくても良い。』と考える余地が生まれます。
失礼なお客には、他のお客とは違う対応をとることも検討できることになります。
それと、もうひとつ・・・。
行動する動機を“~したい”とか“~なりたい”という考えに置くと、他人から強制されたものではない自発的な行動になり、より自主性が出てきます。
しかも、たとえそれが出来なくても、必要以上に自分を責めることもなくなる訳で、心を病むこともなくなります。
いろいろな意味で救われるのではないでしょうか。
from 半次郎



新しい年も一週間以上が過ぎ、平常通りになってきました。
年末年始の慌しさにかまけて、あれもこれもと積み残した用事が、一斉に半次郎の背中を押してきます。
直ぐやれば出来ることを、どうしても期限ぎりぎりまで先延ばしにして、期限間際になって焦ってこなしています。
困ったものですね。
さて、年が改まった2009年1月の今月の言葉は、そんな半次郎が落ち込まないですんでいるこの言葉をお届けします。
『 “~すべき” ではなく
“~したい” で
行動しよう 』
“~すべき”という考えで行動をする人がいます。
半次郎が子どもの頃は、そんな考えが主流だったように思います。
『男の子なんだから、女の子を泣かしちゃだめじゃない!』とか、『もうお兄ちゃんなんだから、ちいちゃな子の面倒を見なくちゃだめでしょ!』なんて・・・。
『○○だから、△△すべき』という考えは、行動を促す動機付けには良いのかも知れませんが、言われた方は非常に辛いものです。
“やって当たり前”、“出来て当たり前”というように伝わってきますので、“出来ない自分が悪い”という自責の念に駆られます。
その最たるものが、『給料を貰っているのだから、嫌な仕事もしなければならない。』とか、『どんな安いものでも、買えばお客なんだから、失礼なことを言われても耐えるべきである。』などというおかしなルールの押し付けになったりします。
私たちが行動する上で重要なことは、“~すべき”(shuld)という考えではなく、“~したい”とか“~なりたい”(want)という考え方で行動することです。
そう考えると、すこしだけ余裕のようなものが生まれます。
心が救われる気がするのです。
例えば、『いくら給料を貰っていても、本当に嫌な仕事はしなくても良い。』と考える余地が生まれます。
失礼なお客には、他のお客とは違う対応をとることも検討できることになります。
それと、もうひとつ・・・。
行動する動機を“~したい”とか“~なりたい”という考えに置くと、他人から強制されたものではない自発的な行動になり、より自主性が出てきます。
しかも、たとえそれが出来なくても、必要以上に自分を責めることもなくなる訳で、心を病むこともなくなります。
いろいろな意味で救われるのではないでしょうか。
from 半次郎
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