信州塩尻発 田舎暮らし日記

生まれも育ちも埼玉県飯能市。現在は移住して長野県塩尻市民です。 田舎暮らしや趣味の事、居合道の事等々を書いております。

吾野の鉱山索道遺構

2019年11月14日 | 故郷の思い出



吾野の鉱山遺構…アズサズ林道の中腹にある鋼管鉱業吾野事業所跡(地元民が言うところの「鋼管の山」)は、ネットで意外と多くの方が紹介されていて、とても懐かしく、さらに故郷を知って貰えて嬉しく思います。

そしてさらに何名かが紹介してくれている索道跡の滑車…山の中に突如現れる錆び付いた索道のプーリーですが、コレをネットで最初に紹介したのは、実は自分なのであります。
約15年前の高校生の頃に開設していたブログで紹介したのですが、思ったより多くの方が見ていらしたのでしょうか?
「今は閉鎖してしまったブログで存在を知った」と書かれている方がいらっしゃり、そのブログは間違いなく自分のものでしょう。

吾野にある索道跡…かつて祖父から聞いた話ですが、吾野の南に位置する名栗に白岩地区という石灰石を採掘している(いた?)があるのですが、そこから吾野鉱山まで引かれていた索道の跡であります。

トップ写真のプーリーは多くの方が紹介されていますが、実はその延長線上、吾野駅側斜面に鉄塔も残っているのです。
木に紛れて分かりにくいため、これは初出だと思います。












写真のセンスが無いので、イマイチな感じですが…上手いカメラマンが撮ったら、山に遺された人類の遺構が自然に飲み込まれて行くような、凄くノスタルジックな画になるのでしょうね。
芸術的なセンスが乏しくすみませんねえ。

鉄塔にもしっかりプーリーが残っていますね。
タラップもあるのですが、さすがに錆び付いており、いつ破断するか分からないですから昇るのは絶対にやめましょう。

ちなみに、この鉄塔を間近で見たい場合は、プーリーが置いてある稜線から降りるより、行きの斜面を注視しながら歩き、見つけたら直登した方が安全です。



自分も鉄工の仕事をしていますが…リベット留めの構造物ってワクワクしますよね。

フルのリベット留めではなく、アングルとプレートは予め麓でリベット留めしておき、ここまで部材を担ぎ上げてからボルト取りして組んだということでしょうか?
さすがに山の中にリベットを焼く火床やコークスを持ってきて…ってのも大変でしょうし、リベットはカシメてしまったら動かないけど、ボルト取りだったら組む時に融通が効きますからね。

それにしても、100mmと75mmのアングルで組まれた鉄塔ですが、機械ではなくみんなでヨイショして荷揚げしたはずです。
本当に昔の人達は凄いですね…







高校生の頃、自分がここを発見した時は、鉄塔の真下に写真の木箱があり、中には油が入った缶と、同じく写真の底が抜けた油差しが入っていましたが、長年の風雨等で地表共々下へ流れておりました。

それにしても…山の中に突如現れるこの遺構…
初めて見つけた時は、もの凄く驚きました。

回想すると…

当時我が家の一員だった、柴犬のさくらさんと山に行くことが休日の楽しみでしたが…



ある日さくらさんと、吾野駅の裏山から道を登り、子の権現まで散歩に出かけました。
さくらさんも散歩が大好きだったので、休みとなれば大高山や子の権現まで散歩していました。



吾野駅裏山の、土砂崩れ跡のてっぺんより少し上にある、トロッコのレールが杭として打ち込まれている怪しい道…
前々から気になっていました。
野生児の勘で、コレは何かあるんじゃないか?と。

ハイキングコースは、この杭が続く坂の途中で左に折れて行きますが、そのまま杭がある獣道を真っ直ぐ進むと、山の稜線に出ます。
(ちなみに鉄塔は、この稜線に出る手前の山側にあります。足元と山側をよく見て登ってみて下さいね)

そのまま稜線を登って行くと、行き着くのがトップ画像のプーリーです。



最初は戦車が打ち捨てられているのかと思いギョッとしましたが、よくよく見たら、索道のプーリーでした。
よくスキー場のリフトを吊っている鉄塔にこんな装置ありますもんね。

「吾野の山にこんなものが…」と思いつつ、とりあえず写真を撮ったので、帰宅して祖父に見せたら、とても懐かしがっていました。

以上、回想終わり。



意外とまだベアリングが生きていて、クルクル回ります。
ちゃんと注油されていたのですね。

在りし日の索道には、ドラム缶を縦に半分に切ったようなゴンドラがぶら下がっていたそうな。
先述の通り、その索道で名栗の白岩地区や鋼管の山から石灰石を運んでおり、最終的には吾野駅山側の所にあったホッパーへ石灰石を運搬していたようです。



子供の頃、吾野駅の貨物扱いの遺構(写真)より山側の所にホッパーのようなものがありました。
このコンクリートの構造物は、どのように使われていたのか不明です。
何か設備があったのでしょうか?
祖父が生きていた頃に聞いておけば良かったです。

そしてその索道…
定期的に点検員がゴンドラに乗って、プーリーに注油していたそうな。
今では貨物用の索道に人間を乗せたら労働基準監督署が黙っていないでしょうが、安全は二の次の時代だったでしょうからね。
安全帯なんてカッコ悪いから着けないという職人さんが普通にいた時代です。

それにしても、吾野から名栗まで索道を通すなんて…よくそんな発想が出来たものだと驚きますし、部材の運搬やワイヤーの編み込みなど、作業者も凄い力持ちかつベテラン揃いだったのでしょう。
今では道路が発達しているので考えつかない運搬方法でしょうが、当時は索道による鉱石の運搬はごく普通に行われていたようです。
秩父の日窒鉱山にも索道の鉄塔が遺っていますが、秩父鉱山から小鹿野を経由して三峰口駅までを結ぶ、当時東洋一の長さを誇った索道もあったようなので、案外珍しいものでは無かったようですね。

とはいえ、設置にも相当な費用がかかるうえ、ランニングコストは洒落にならない額だったのではないでしょうか?
ワイヤーが切れたら…全員で担いで結線していたのでしょうかね?やってらんないですね。

まあ、当然道路事情の改善や自動車の発達によって、索道は姿を消しました。

祖父は身長160cm程の小柄ながら、若い頃は外麦の俵を5俵担いで貨車に積み込みしていたと話していましたが、昔の人は現代人とは比べ物にならないような力があったので、こうしたこともやってのけたのでしょう。
自分も現代人の中では怪力の部類に入ると自負していますが、昔の人達の中だったら、そこそこ力持ち程度だったかもしれないです。


ちなみに






(合流地点)

プーリーの稜線をさらに登って行くと、前坂、大高山、子の権現方面に行くハイキングコースと合流します。








そして、先述のレールの杭がある道から索道の稜線と合流する道の中間に「りゅうがい山」という山へアクセスする道があります。
「りゅうがい山」とは「要害山」が転訛した地名で、字の通りかつて岡部六弥太忠澄という人物が治めていた山城がありました。

今でも堀切などの遺構が現存しております。

麓の旧坂石尋常小学校跡~白髭神社付近には屋敷跡もあります。

大学生の頃に、ここの研究をしておりましたが、その論文がどこへ行ってしまったやら…

これら吾野の山…自分にとっては庭であり、足腰や腕力などを鍛えてくれた先生でもあります。

剣道着姿に草履を履き、自作の木刀を持って獣道をさくらさんと走り回っていました。
トレイルランの出で立ちの時はハイキングコースを走っていましたが、道着姿の時はハイカーの方の迷惑、恐怖になるので、獣道か自分で作った道を走っていましたね。
当時は丸刈りでしたから、風貌はまさに西郷さんでしたし。

そして山が鍛錬してくれた自分の体は、未だ健在であります。
山こそ草履で歩くことによって、母指球に力が入り、指で地面を掴むように歩くため、体の内側の筋肉を鍛えられる最高の場所だと思います。
今回の帰省時にココを見に行った時も、もちろん草履で行きました。

とはいえ…草履は歩き方を間違えると滑ってかなり危ないですし、鼻緒が切れて裸足で歩いた場合、足裏を切って破傷風というリスクもありますから、全くおすすめはしません。むしろ絶対に真似しないで下さい。
吾野駅から子の権現まで山をショートカットして、45分で行けるような野生児だったからこそ問題無かったですが、普通の人だったら怪我や遭難するのが関の山です。

そして最後に…


ゴミは必ず持ち帰りましょう。
ビニールやビン缶は土に還りません。
本来自然に無いものを自然に捨てる行為は、自然で遊ばせてもらっている者がするべきで行いではありません。
当然のことですが、その当然のことが出来ない人間が山に来る資格は無いと考えます。



長野県の里山ではあまり見かけない、ほぼ針葉樹の山…
かつて林業で栄えた西川地域の山の姿であります。
これが自分の故郷の山であり、庭であり、友達であり、先生であります。

今回ご紹介した遺構に立ち寄って頂ければ、ハイキングのちょっとしたアクセントになる事でしょうし、都市部からのアクセスも良く、比較的簡単な山域なので、安全に注意して頂いて吾野の山を楽しんで貰えれば、出身者として非常に嬉しいことであります。

埼玉へ帰省

2019年11月11日 | 故郷の思い出


埼玉の実家に用があったため、日の出と共に塩尻を出発。

前回の帰省はGW中でした。
が!道中の山梨県内で貰い事故を食らって酷い目を見ましたね。
今回は無事辿り着きました。

「ああ、えーちゃん久しぶりだねー帰ってきたのー?」と、ご近所の人達から言って貰えるのは嬉しいものですね。

用を済ませたら時間はちょうどお昼。
父親とどこかメシでも…
ということで、埼玉に来たからには埼玉らしい物を食べたい。しかもガッツリと!

埼玉の名店。そしてガッツリといえば…言わずもがな悦楽苑ですよね?

ちょっと写真の撮り方が良くなかったため、ボリューム感がイマイチ伝わらないのですが、味噌チャーシューの「並」で既に形は富士山です。

もやしの量が半端なく、もやしを食べ終わる頃には麺が伸び始めている感じではありますが、それがこの店のアジであります。

チャーハンやカツカレーなど、他のメニューも量が半端ないので、学生の頃からお世話になっております。
高校生の時に仲間数人と行って全員味噌チャーシュー大盛りを頼み、地獄絵図と化していたのも懐かしい思い出です。

ここの店主はモータースポーツ好きであり釣りも好きなので、帰省した時は同じく釣り好きの父とよく行くのであります。





そしてオリジナルTシャツが販売(2,000円)されていたので、迷うことなくお土産に買って帰りました。



次! 埼玉のB級グルメといえば「みそポテト」…

じゃがいもの天ぷらに甘じょっぱいタレがかかっている逸品です。
芦ヶ久保の道の駅では、出来たてのサクッとしたみそポテトを食べることも出来ますし、お土産で持って帰ることもできます。
「ちちぶ餅」も売られていたので、もちろん両方ともお土産に。

秩父に来たら是非ご賞味あれ!

そして…

台風19号の爪痕が至る所にありました。

中央道も所々、法面にブルーシートや擁壁で養生されていましたし、国道299号線は高麗川に沿って流れているため、越水してゴミや水圧により曲げられたガードレールや陥没した歩道などが散見されました。

故郷のでも…




橋へ行く道が通行止めになっていたので、何があったのかちょっと見に行ってみると…




あれまぁ…

赤く塗られた鉄板の橋が架かっていたのですが、橋台は抉られ、半分より手前は橋桁ごと流されてしまっていました。

よく我が家にいた柴犬のさくらさんと渡った思い出の橋で、川向うの河原でもよく遊びましたが、諸行無常とでも言いましょうか…

実際のところ、自分に利害があるわけではないのですが、少しずつ変わっていく故郷の姿に何か悲しさの様なものを感じました。

いつの間にか開いていた坂石町分トンネルのように、より良くなった変化ではなく、後退した変化だったからでしょうか?

吾野のが繁栄していた頃の面影といえば…
それはまた今度書きたいと思います。

帰りは17時過ぎ頃に故郷を出発し、圏央道経由の中央道コース。
雁坂トンネルを通って帰ろうとも思ったのですが、道大丈夫?と思ったので無難に高速ルート…

八王子JCTの中央道上り線のナビ上に事故車/故障車のアイコンがいくつも出ていたので気になりましたが、どうやら多重衝突の事故があったようですね。
いつも夕方に長野方面へ向かって走っていると、対向の上り線では小仏トンネルから上野原or談合坂SA付近までよく渋滞していますが、昨日は大月JCTまで渋滞していたので、GWやお盆休みレベルの渋滞でしたね。




お夕飯は談合坂SAで…昼もラーメン、夜もラーメン…
すた丼を食べようと思ったのですが、かなりの行列が…

サービスエリアのフードコートは子供の頃から大好きです。
あのワクワク感は一体何でしようか?

甲府の夜景を横目にひたすら走っていたら、双葉SA真下の上り線でまたもやステーションワゴンのような車が180度向きを変えて事故…

自分の事故のように、自分が気を付けていても突っ込んでくる時もありますし、笹子トンネルのように飛来物、落下物、や自然災害など、どうする事も出来ない事故もありますが、「よそ見さえしなければ…」や、「スピードさえ出さなければ…」などと、自分の不注意が招く事故もありますから、せめて後者の事故だけは起こさないように努めなければなりませんね。

また次回の免許の更新もゴールド免許で書き換えられるよう、安全運転で走りたいものです。



吾野の靖国神社の桜

2018年04月04日 | 故郷の思い出



私の母校、吾野中学校の下、国道299号脇の桜が数本植えられている段に、靖国神社の桜の子孫があります。

私が小学生の頃、靖国神社の境内で拾った桜の種から苗木を作り、中学3年生の時に校長先生の許可を貰って植樹させて頂いた木です。

数十粒の種のうち発芽したのは2本のみ。

それから十年以上経ちましたが、今まで花を見たことが無く、今年初めて花を見たのですが、大輪の真っ白い花を咲かせていました。

見たところ大島桜なのでしょうか?
確か葉も産毛がなく、大島桜らしくツルッとしていたと記憶しています。










隣の染井吉野と比べると、色の差がよく分かりますね。
万朶の花を付け、しっかり育ってくれていて何よりですが、染井吉野の枝が上に覆い被さってしまったためか、幹が素直では無く、支柱を立てた方が良いのかな?
まだ幹は自分の上腕程も無いため、尚更ですが…

しかしながら、生命力が強い大島桜系の木でしたら、この先十年、数十年と経つ事に立派な木になってくれることでしょう。
染井吉野など園芸種の寿命は100年程ですが、大島桜などの野生種は300年程以上と言われていますからね。

樹木は人間の数倍生きますし、何より親木が靖国神社の桜。
日清戦争、日露戦争、支那事変、大東亜戦争と、吾野の里からも多くの若者が戦地に征き、尊い命を国に捧げております。
自分の祖母のお兄さんも出征し、中支で終戦を迎えて復員したもののマラリアにかかっており、毛布を幾重にも掛けてその上に祖母が乗っても痙攣が止まらず大変だったと話していました。

命は助かっても、こうして青春という一度きりの時間を戦争に費やした先人達の犠牲もあり、自分たちの平和が成り立っていることを決して忘れてはいけませんし、自分たちも後世のためにその利他主義的思考は身に修めておくべきでしょう。


吾野という故郷を想い、家族を残して遠くの地で戦死、戦病死された勇士や勤労奉仕中に空襲を受け散華された銃後など、同郷の英霊に感謝と冥福をお祈りして下されば、この桜の育て親として幸いに思います。

また来年もお楽しみに。


奥武蔵の故郷

2018年04月02日 | 故郷の思い出



母方の祖母の葬儀のため、故郷飯能市へ帰省しましたが、関東平野は桜が満開でした。
長野県は今日ようやく咲いたのですがね。

身内が他界することは非常に惜しいですが、人間必ずいつかお迎えが来るものです。
それが1年のうち数日しか無い桜が満開で、他にも黄色や青の花々が咲き誇る雲一つない快晴の日であったことは、生前の行いが良かったからなのでしょう。








高山の桜も見事でした。
県外や大宮、川越など、遠くからも来ているのですね。
以前はグリーンラインもこんなに交通量は多くなかったですが、話題のスポットになったのでしょうか?かなりの数の車とすれ違いました。

写真の軽箱は父方の祖父の形見で、父が釣りに行く時に使っているようですが、よく私が子供の頃、祖父母がこの車で高山や風影、八徳などへ荷物を配達する時腰巾着で付いて廻っていましたから、思い出の地で思い出の車との写真を撮れたかと思います。






私が高校生の頃、ロードバイクに凝っていたのでよくグリーンラインは走ったコースですが、顔振峠にいくつも新しいカフェが出来ていて驚きました。

いつもは3,000m級の山々を遠くに仰ぐ景色ですが、たまには名も知らぬ沢山の低山を見下ろす景色も良いですね。
長野県に移住した時は、険しい高山を遠くに望む景色に見とれましたが、久々に見るかつて何ら珍しくも無かった奥武蔵のこの景色に見とれてしまいました。

今回はガスっていてくっきり見えませんでしたが、秩父山地と関東平野が移り変わるこの場所は、結構子供の頃から好きではありました。
自分の周囲のことしか知らなかった幼少期、テレビでしか見たことが無い東京湾や都心の高層ビルが見えた時には子供ながら凄く感動した記憶があります。




一度家に戻って車を乗り換え、いざ秩父へ。

桜木町にあるラーメン屋さん「冨士屋」の五目ラーメンを食べたかったのですが、時間が少し遅かったため準備中…引き返して横瀬の「悦楽園」へ…

バイク乗りや釣り好きの人には結構有名なお店ですが、写真のようにとにかく量が多い!
醤油ラーメンは普通なのですが、他は凄い!
写真のラーメンは味噌チャーシュー麺ですが、コレも大盛りではなく普通です。
チャーシューも厚くて食べ応え抜群!
これで1000円は良心的?
家で再現しようと思って西友でもやしを買ってきたら7袋必要でした。

ラーメン二郎のようなギトギト脂は無く、チャーシューも脂が少ない、普通の味噌ラーメンにもやしが異常発生しているだけのラーメンですから、案外普通に食べられます。(そもそも自分の「普通」が普通でないのかも知れませんが。)

中学生の頃、家族四人でこの店に初めて行った時、何も知らずに自分と父親が味噌ラーメン大盛りを注文し、母はチャーハン大盛り、妹はチャーシュー麺を注文…やがて奥から運ばれて来たのは、最早「食品」ではなく「未知の物体」…
歓喜と恐怖が混ざった複雑な気持ちを今も鮮明に覚えています。
チャーハンも大盛りは二段になり、アダムスキー型のUFOみたいになります。
ここのおじさんと、父親、自分とで大抵鮎釣りの話になりますが、今回は忙しそうだったので、頂いた後は話はせず店を後に。




これまた高校生の頃に自己ベスト更新に懸けていた丸山林道を上がり、グリーンラインへ。
当時から、ココの棚田から見る武甲山が好きでした。
山肌を痛めながらも、日本の発展に貢献してくれた、誇り高き山です。
何せこの場所にこの山が無ければ、東京の建物は石造りの7階建て程度の建物が主流で、鉄筋コンクリートの高層ビルはそんなに多く建っていなかったでしょう。








苅場坂峠は、熊谷や上州、下野が望め、日光男体山や筑波山も見えます。
よく高校生の頃、吾野の実家から顔振峠に上がり、ここまで何分で上がれるか、自己ベスト更新に情熱を燃やしていました。
当時は地元のおばあちゃんたちが運営している大きい茶屋があり、そのおばあちゃんたちにお茶をご馳走になったりと、良くして頂きました。

かつての国立天文台、堂平天文台も良く見えました。
今はときがわ町が運営するアウトドア、キャンプ施設として使われているそうです。










山から降りて来て、吾野の里を犬と散歩。
何故か里桜と山桜が一斉に開花していました。
写真を撮り忘れてしまいましたが、坂石尋常小学校跡の枝垂桜も綺麗でした。

道端には甘草が一面に生え、山吹も咲き始めています。





桜と愛犬の「さくら」さん。
もう12歳のおばあちゃん犬ですが、まだ散歩好きです。
よくさくらさんが若い頃は、草履に弁当とエサと水が入ったリュックを背負って吾野駅裏の登り口から大高山や子の権現まで散歩に行きました。
獣道から崖、超ショートカットコースなど、近所の山は熟知していましたからね。

1年のうちで最も生命の息吹を感じて、非常に美しい時期ですね。