信州塩尻発 田舎暮らし日記

生まれも育ちも埼玉県飯能市。現在は移住して長野県塩尻市民です。 田舎暮らしや趣味の事、居合道の事等々を書いております。

武漢肺炎

2020年03月31日 | 雑記


だ~いじょうぶだぁ~

と、復活してくれることを祈っていましたが…ドリフターズ…バカ殿様、志村けんさんが武漢肺炎のせいで、この世を去ってしまうのは残念でなりませんし、改めて隠蔽、拡散させた中国共産党政府が憎いです。

対策が後手後手になっているうえ、利権や背後の団体が絡んで的確とは到底言い難い、生ぬるい対応しか打たない日本政府も批判を受けるのは然りですが、どうも批判の矛先から中国を逸らし、日本政府だけに向けさせようとするマスコミ、政治家の動きが目に余ります。

戦後七十有余年、国の最重要事項である国防を他国へ依存し、歴史や伝統文化の否定による自尊心の喪失、国民の関心をスポーツ、娯楽、性産業(3S政策)に向けさせて故意に政治的無関心を作り上げた洗脳的教育を施してきたツケが、今の政府の対応であると言わざるを得ないでしょう。いわゆる戦争を知らない子供たちというものでしょうか。
民主主義国家において、国民の民度と政治レベルは比例するのですから。

あとは…やはり歴史の教訓から学ぶとすれば、日本を泥沼に陥れて日本を破滅させた近衛内閣、ドイツを自壊させたナチス、モンロー主義を掲げていたはずのアメリカを戦争に踏み切らせたルーズベルト…それら全てで内部工作していた共産主義は、当然ながら違法とするべきでしょう。

強いて言うならば、ここで中国は火消しどころか武漢肺炎を蔓延させた責任を日本やアメリカに擦り付けており、今こそ徹底的に中国共産党を叩いておかないと、かつて袁世凱が望むように改変したはずの対華二十一ヶ条要求を、袁世凱自らが反日プロパガンダで利用した時のように都合良く日本のお人好しな性格は利用される。
教科書のような、改竄されたファンタジーの歴史ではなく、正しい歴史を研究して現代を知るべきです。

いつもの田舎暮らしの、ほのぼの記事とは真逆な投稿になってしまいましたが、今の武漢肺炎に対する報道等は、到底看過できないところであります。


さて、志村けんさんの話題に戻ると…
ドリフは子供の頃から大好きでした。







あの時のテレビは面白かった。
もしも○○シリーズとか、毎回爆笑していました。
バカ殿様では、普通にポロリ連発で、自宅のお茶の間の凍りようも…苦笑



「ケンちゃんラーメン 新発売」…よく婆ちゃんちで食べましたね。
中にシールが入ってたやつ。確かナルトが車の形をしていたと記憶しています。

改めて…日本が誇る名コメディアンの一人、志村けんさんの命を奪った武漢肺炎、それを隠蔽した中国政府が憎い。

長さん、荒井注さんと、またあの世でもドリフターズを再結成して下さい。
志村けんさん、安らかに。
ありがとうございました。

31歳になる

2020年03月03日 | 雑記


この世をば 暫しの夢と 聞きたれど
思えば長き 月日なりけり
(徳川慶喜公 辞世)

おかげさまで、3月1日で31歳になりました。
血の気が多かった10年ほど前は、28歳くらいの頃に、お隣の大国と戦争になり、戦死しているだろうな…と思っていたので、まさかこの歳まで生きられると思ってもいなかったですが、生きながらえて31歳を迎えました。



余談ですが、誕生日の3月1日は、明治10年の西南戦争において、西郷隆盛率いる元薩摩藩士と政府軍との間での激戦…田原坂の戦いの火蓋が切られた日であり、明治38年の日露戦争においては、日露両軍が近代戦史上稀に見る広大な戦線を展開した奉天会戦が開始された日であります。

今までの人生のうち、幾度も、最早これまでと悟った我が命。
人間は運が悪く不幸に見舞われるのではなく、幸運が度重なって、今生きているんだと感じたものです。
一秒後には大地震が発生して落命しているかもしれないし、自動車に轢かれているかもしれない。
だから五体満足でこの世に生きられる一瞬を大切にするべきですし、その恩恵は自分一人で得られたものでは無いのだから、自分さえ良ければ…と利己的な生き方であってもいけないと思っています。

例え見返りがないとか、自己満足で終わるようなものであっても、そうした生き方が自分の好きな生き方ですし、かつての帝国陸海軍将兵、特攻隊員などは、そのような心境であったはずです。

一年前の記事でも取り上げましたが、吉田松陰先生が弟子の山田市之允へ贈った言葉を改めて再掲して、自身を省てみたいと思います。

立志尚特異
俗流與議難
不思身後業
且偸目前安
百年一瞬耳
君子勿素餐

志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない
世俗の意見に惑わされてもいけない
死んだ後の業苦を思い煩うな
目先の安楽は一時しのぎと知れ
百年の時は一瞬にすぎない
君たちはどうかいたずらに時を過ごすこと勿れ

生活していく上で、何れかを判断する時、合理性や道義の正否による選択ではなく、楽だったり、楽しい方だから…という理由で判断していないだろうか?

今の一瞬を楽しむことも大切ではあるけれど、刹那的な楽しみは、意外とすぐに忘れてしまいます。
少なくとも自分はそうです。
対して、努力したり苦労して得られた悦びは数年後も忘れないものですよね。

挺身赴難…この一年は、コロナウイルスや経済の急減速など、先行きがとても暗く見えますが、疾風勁草…一層奮励努力して乗り越えて行きたいと思う所存です。

第96回 箱根駅伝

2020年01月06日 | 雑記


新年明けましておめでとうございます。
また本年も宜しく御願い申し上げます。

今年も私の母校、国士舘大学が箱根駅伝へ出場したため、2日の朝4時に家を出て、箱根峠の頂上を過ぎた精進池の脇で応援して来ました。

御殿場から箱根に登って行き、乙女峠から見た夜明けの富士山と御殿場の市街がとても綺麗でした。






5区の山登りでは17位で中継しましたが、故障している鼡田君はとてもキツそうに前を通過。
筑波大の学生に後を追われていましたが、芦ノ湖までの下りで抜かれてしまったそうで、往路は最下位。
復路では一つ上げて19位でのゴールでしたが、今回は繰り上げスタートにならず、大手町から大手町まで一つの襷を繋げたという、とても素晴らしい結果を残してくれました。



4年連続して出場できるようになり、ようやく選手の粒も揃ってき始めたのでしょうか?
やはり強豪や常連校には選手が集まりやすいですが、今はようやく下地が出来た時期なのかもしれないですね。
母校の今後の活躍に期待しています。








箱根駅伝…青春をこの箱根に懸けた若人の花舞台を見ることが出来て、とても気持ち良い新年のイベントであります。
選手が通過するまでの数時間、駅伝が来る雰囲気を楽しんだり、旧東海道の石仏、石塔を見学して過ごすのも、なかなか楽しくて好きです。

元箱根の石仏、石塔の色々な写真は、また後日紹介したいと思います。




学生時代に、よく仲間と歌っていた母校の歌…舘歌、第一/第二応援歌、寮歌、突撃音頭、男度胸 等々…
実に懐かしいですし、箱根駅伝の応援といえば、やっぱり大学の歌ですね。
やはり国士舘大学というだけあって、とても勇ましい歌ばかりで大好きでした。


国士舘 舘歌

霧わけ昇る 陽を仰ぎ
梢に高き 月を浴び
皇国に殉す 大丈夫の
ここ武蔵野の 国士舘

松陰の祠に 節を磨し
豪徳の鐘 気を澄ます
朝な夕なに つく呼吸は
富嶽颪の 天の風

区々現身の 粗薪に
大覚の火を 打ち点し
三世十方 焼き尽す
至心の焔 あふらばや
至心の焔 あふらばや



第一応援歌

人混沌に迷う世に 松陰祀畔の大丈夫が
高打ち鳴らす陣太鼓 いざ響かせよ国士舘

熱血溢るる若人の 清澄大気の旗風に
向かうるところ皆伏して 衝天の意気我にあり

惑星清し黎明に 金鼓の響き堂々と
常世の勝を示しつつ いざ響かせよ国士舘


第二応援歌

並木照る白銀に 玉かじしめて
敵取らば血みどろの その名ぞ国士
駒の怒濤凱旋の覇者 天下に誇るは我が母校
その名ぞ国士 押忍 その名ぞ国士

秋風の唯中に 紅葉を踏んで
意気つくや 猛り立つ その名ぞ国士
駒の怒濤凱旋の覇者 天下に誇るは我が母校
その名ぞ国士 押忍 その名ぞ国士

閉店前の蛍の光?

2019年11月02日 | 雑記
実は閉店前の「蛍の光」は、「蛍の光」ではなかったってご存知でしたか?

「別れのワルツ」という曲なんだそうです。

閉店前の「蛍の光」は、どのお店もことごとく四分の三拍子のワルツになっているので、何故なのか疑問に思っていましたが、調べたところ判明しました。
今年の個人的重大事件のうち、暫定的に14番目くらいの大事件です。

唱歌「蛍の光」は四分の四拍子ですが、閉店前の「本日も ご来店 誠にありがとうございました」の音声の後ろで流れている「蛍の光」らしき曲は四分の三拍子になっているので、結構前から「なぜワルツに編曲?」と疑問に思っていたのであります。(しかしながら、すぐに調べようとしない時点でかなりどうでもいい疑問だったことは事実ですけどね。)
多分JA○RACの利権だろうとか、U○ENで他に選曲できないとか、その程度の事だろうとタカをくくっていましたが…

「蛍の光」も「別れのワルツ」もスコットランドの民謡「auld lang syne(old long since)」が原曲で、日本では海軍兵学校の卒業式の曲として「蛍の光」が歌われるようになり、さらに士官や下士官が異動する際などに同曲を行進曲調に編曲した「告別行進曲」が演奏されていたため、その名残なのか今でも日本の多くの学校で卒業式の歌とされています

一方、同じ原曲がアメリカに渡り、1940年制作の映画「哀愁」の挿入歌でワルツに編曲された「別れのワルツ」が使われて日本では昭和24年に公開。
この曲自体がヒットしたうえ、映画では閉店間際にこの曲でワルツを踊るシーンがあるらしく、そのイメージがとても印象的だったことから、今でも閉店の定番曲になったとの事です。

それにしても凄いですよね。この曲を聴くと、「あっ、もう閉店か!早く買わないと!」という心理に駆られるのですから。

皆様も色んなお店の「蛍の光っぽい曲」を聞いてみてくださいませ。
なかなか四分の四拍子の「蛍の光」が流れることは無いですし、ましてや合唱の「蛍の光」になってしまったら、一気に閉店ではなく卒業式になってしまうので、お店では一度も聞いたことが無いですから。

ちなみに蛍の光…卒業式では2番までしか歌わないため、2番までの曲かと思いきや…。

一.
蛍の光 窓の雪
書読む月日 重ねつつ
何時しか年も 杉の戸を
開けてぞ今朝は 別れ行く

二.
止まるも行くも 限りとて
互ひに思ふ 千万の
心の端を 一言に
幸くと許り 歌ふなり

三.
筑紫の極み 陸の奥
海山遠く 隔つとも
その真心は 隔て無く
一つに尽くせ 国の為

四.
千島の奥も 沖縄も
八洲の内の 護りなり
至らん国に 勲しく
努めよ我が兄 恙無く


4番まであることを昔じいちゃんに教えて貰いました。さすが海軍軍人。
海軍で歌われていた曲だけあり、三番から一気に歌の雰囲気が変わりますね。

日常生活や仕事など…何の役にも立たない、このようなネタは子供の頃から大好きです。

あまりに驚いたので、書き綴っておきました。

長崎県

2019年11月01日 | 雑記
テレビで「長崎の女」が流れており、意味もなくふと思いました。
「長崎の女」と書いて「ながさきのひと」と読むところが文学的で美しいですね。
春日八郎さんの名曲ですね。よく会社の忘、新年会の時に東京ラプソディー、高原列車は行くなどと共によく歌います。

「長崎の女」「長崎の鐘」「長崎は今日も雨だった」「長崎の雨」「長崎のザボン売り」…歌謡曲にはなぜ長崎を題材にした曲が多いのでしょうか?
教会や洋館など、モダンな雰囲気が歌謡曲のノスタルジックさとマッチするのでしょうか?

今まで長崎県には行ったことが無いですし、接点としても無理矢理こじつけてリンガーハットの長崎ちゃんぽんくらいしかないので、いまいちピンと来ないのであります。
学生の頃に憧れていた海上自衛官、護衛艦、潜水艦乗りになっていたら、佐世保基地に寄港したりと何らかの接点があったのでしょうが。


(ネットより写真を拝借)

大浦天主堂とかグラバー邸、外人墓地など、行ってみたいところはたくさんあるのですがね。
顔に似合わず、ステンドグラスが好きだったりするので、長崎の教会群には憧れています。

余談ですが、個人的にリンガーハットのちゃんぽんが好きなのですが、4年程前までは松本平にリンガーハットが無く、上田市までわざわざ食べに行ったり、実家へ帰省するついでに山梨県甲府市か埼玉県飯能市の店に立ち寄っていましたが、今や南松本のイオンや松本のイオンモール、岡谷のレイクウォークに出来たので重宝しています。
あっという間にポイントカードが貯まる程でしたが、ポイントが廃止されてしまい残念です。
どうやら本場のちゃんぽんは、リンガーハットのものより油っぽくコッテリしているらしいですね。
一度本場のものを食べてみたいと思ってます。

居合の北九州大会のついでに…とも思ったりするものの、大阪大会と並び毎年その時期は忙しくて試合どころではない状況なので、とてもとても…

カステラもザラメがジャリジャリしているタイプが好きなのですが、甘党かつ大食いの自分は、そろそろ気をつけないと…

松本から福岡まで飛行機が飛んでいるので、長崎県…いつか行ってみたいですね。
ちなみに、松本~神戸の定期便も今月から就航したので、同じく行ってみたい所です。
神戸も…縁が全く無いので、明治の外人居留地のイメージしか無いですが…

「身皇国に生まれて、皇国の皇国たるを知らずんば、何を以て天地に立たん。」
吉田松陰先生が水戸学に触れて仰った言葉です。
日本人として日本に生まれ、日本を知らなければ、どうして日本人として生きられるのか?そのような意味ではありますが、自分も未だに日本の歴史、民俗等知らないことだらけです。
日本列島津々浦々…広く旅してみたいです。


寒くなりつつある信州から暖かい九州について、適当に綴りました。
御目汚し御免。