”雲八ねえさん”の歴史スポットめぐり

天海ゆかりの大津市坂本、滋賀院門跡へ…!

大河ドラマ”麒麟がくる”は先週最終回でした。

本能寺の変で、光秀に襲われた信長…。

大暴れといった感じの戦いっぷりでした。

 

本能寺の変はしっかり描かれていましたが、

その割に”山崎の戦い”と光秀の最期は

微妙なナレーションで終わりました。

 

光秀は”山崎の戦い”に敗れた後、

密かにどこかに逃れ、生きている…?

そんな説も感じさせる終わり方です。

 

 

さて実際、岐阜県山県市には、

光秀は戦いに敗れた後、密かにこの地に

落ち延びて、名前を変えて潜んでいた…!

…との昔話が伝えられています。

 

他にも”光秀生存説”はいろいろあります。

歴史マニアの間で知られている話としては…、

光秀と江戸幕府のブレーン、南光坊天海は、

同一人物だった…!という話です。

 

まっさか~、光秀が天海になった…?

年齢から言ってありえない…!

もし本当に光秀が天海だったとしたら、

天海、100歳を超えて生きたことになる…!

 

…、と思っていても、歴史マニアさん

この類の話って大好きなのですよね。

天海さん、実際に100歳超えだったと

語っていたマニアさんもいましたよ。

 

「そういえば、光秀の筆跡と天海の筆跡は、

よく見ると、似ているのですよね~。」

「先日、日光の天海ゆかりのスポットで、

光秀の家紋、桔梗紋を目撃しましたよ。」

「そういえば…、天海ゆかりのスポットに

”明智平”っていう名前のところがあったね。」

 

 

これ、捜すと結構出てくるのですよね。

ところで、明智光秀ゆかりの大津市坂本にも

天海さんが建立したお寺がありました。

 

滋賀院門跡です。高い石垣に囲まれた

風格ある佇まい…。格式高いお寺です。

 

天海さんは家康、秀忠、家光の三代に

わたって将軍家に仕えたお坊さんですが、

ここには天海さんを祀る廟所もあります。

 

 

天海さんは比叡山焼き討ちの後、

この地の復興に力を注いだそうですが、

こんなところに天海さんのお寺があるのも

”光秀、天海説”と繋がってしまうかも…。

 

滋賀院の建物は明治の火災で全焼し、

現在の建物は、比叡山の建物を移築

再建した、ひときわ立派なものでした。

鈴木松年の松の絵がワイルドで印象的…。

 

 

このお寺には天海さんが着用したという

儀式用の甲冑が伝えられています。

 

甲冑の素材は紙と布のみ…。

金箔が施されきらびやかです、

とても軽い甲冑だそうです。

 

なるほど、紙と布だけで作られた

金色に輝く、きらびやかな甲冑は、

実戦用ではなくて、儀式用…。

江戸時代、やっと平和な世が訪れたことを

語っているようにも思えます。

 

 

滋賀院には立派なお庭がありました。

小堀遠州作の鶴亀の庭園です。

お寺からのクイズがありました。

「鶴と亀はどこにいるでしょう…?」

 

クイズに挑戦…。お庭を眺めてみます。

この樹、鶴の形に似ているかも…?

このあたりが亀をかたどっているような…?

 

正解は、帰る時に玄関に掲げてある

お庭の写真でご確認を…とのことでした。

 

明智光秀ゆかりの地、大津市坂本で

見つけた天海さんの菩提寺は

格調高く、見どころいっぱいでした。

コメント一覧

hatamotoooshimake52
コメントありがとうございます。
光秀さんが関ヶ原の戦いの頃まで生きていた話が
伝わっているようですね。
とてもロマンを感じる、でもちょっと残念で笑える話です。
kimie203
山県市に落ち延びた十兵衛さんは荒深小五郎と名前を変えて、
関ケ原戦いの頃まで生き延びた話が伝わっています。
関ケ原の戦いの時、東軍で参戦しようとしたのですが、
氾濫した川を渡ろうとして亡くなったといわれます。
山崎の戦いの三日天下、関ケ原の戦の前に川で亡くなった話、
ちょっと残念な話ですね。山県市にお墓もあります。
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