西の方角に開いた谷戸に建つ円覚寺は東に山を背負っているので午前8時でも日は差し込まず、空気は凍てついたままで、暖房のないだだっ広い大方丈に坐っていると、下手をすると歯の根が合わなくなって勝手にカチカチ鳴り出すくらいに底冷えがする。
これまでは下着にミニカイロを張り付けていたのだが、小ぶりのミニではちっとも暖まらず、ならばと普通サイズの使い捨てカイロを買ってきて先々週の初坐禅に臨んだら案外良かったので、今回も両太ももに1枚づつ、下腹に1枚、腰に2枚、胸に2枚の計7枚も張り付けて出掛けた。
我ながらジジイになったものだと思うが、念のため言っておくと、冷えてトイレに立つのを出来るだけ少なくするためである。
歳を重ねると自分の意思とは関係なくトイレが近くなってしまうのだ。
尿意に集中力をそがれたくないではないか。
そしてこの日、坐禅会場は冷え切った大方丈ではなく、隣の信徒会館というところの2階の大広間だった。
大広間に入った途端、おやっと思ったのだが、何となく空気が柔らかいのだ。まるで暖房が入っているように。
ここは2、3年前に建て直されたばかりの新しい建物で、冷暖房設備が整っている…
おまけに坐禅が始まってもこうこうと明かりが付けられたままで、普段は電灯の消された大方丈の薄暗い空間に坐っているのに慣れた身には、どうにも落ち着かない。
こんな普段とは違う環境での坐禅が1時間余り続き、普段だとこの後、般若心経などいくつかのお経を唱えて終了となるのだが、それもなし。
どうにも締まりのない坐禅会になったものだ。
本来なら横田南嶺管長の盤珪禅師語録の提唱を聞きながら坐る日なのだが、ちょうど20日から修行僧たちの集中坐禅修行期間に入ったため、横田管長はそちらの指導にかかりきりとなってしまうのだ。
そして驚いたのが、この日の直日を務めた和尚の発言だった。
この和尚は在家のための修行道場である居士林の住職を兼ねる和尚だが、曰く「冬の寒さや真夏の暑さに耐え、我慢して坐禅をするということが今の時代にあっているのかどうか。それよりも冷暖房も使って居心地を良くして自分の心と向き合うことに集中できるようにした方がいいのではないか。いろいろ考え、試行錯誤しているのです。そうやって新しい時代にふさわしいい坐禅の在り方を模索していきたい。皆さんにもお知恵を拝借する機会もあるかと思います」。
まぁ、確かに新しい時代というものにきちんと向き合って、時代にふさわしい坐禅の在り方を探るというのは必要なことなのかもしれない。
代々長く引き継がれていくものには変化に対応できる柔軟さというものも必要で、ヘタをすれば恐竜のように絶滅しかねない。
そういう意味からも革新のための努力は惜しむべきではないと思うが、ボクはちょっと首を傾げる。
考え方そのものが優しすぎるんじゃないか。
優しい横田管長の考えが影響しているのだろうが、寒いのも暑いのも自然現象であって、自然の一部であるはずのヒトだけそこから離脱するのは返って不自然なのではないかなと思う。
修行僧たちの修行の場である僧堂というところでは、かなり理不尽なこともまかり通っているようだが、それは人間同士のことであって、自然とは無関係である。
寒さに耐え、胴震いしながら坐り続けるのも自分なら、額から流れる汗が眼のふちに流れ込もうが、背中を汗がツツーッと幾筋も幾筋も流れ落ちようが、それをじっと我慢して坐り続けるのも自分なのだ。
そうやって坐っていると、我慢に我慢を重ねて坐っている自分と向き合っていることに、やがて気付くことになる。
自分と向き合っていることが分かれば、少なくともその時の心のありようはのぞき見することができるというものである。
そこから始めればいいんじゃないのかね。
修行や鍛錬の場にも「快適さ」って言うものが必要な時代を迎えているってことなのかなぁ。
まだちょっと理解するまでには時間がかかりそうである。
先々週の日曜日、ツボミの先がわずかにほころんでちょっぴり黄色がのぞいていたフクジュソウ
2週間かけてもまだこの程度=円覚寺居士林
がんばれ!
今年初めて氷が張っているのを見た=円覚寺黄梅院
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heihoroku
高麗の犬
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