平方録

花の咲くころには…

腕を骨折して入院中の大先輩を10日ぶりに見舞う。
糖尿病の方が相当悪化していたらしく、そちらの治療が優先されているためか、依然として骨折箇所の手術は行われていないという。
入院して既に50日くらいにはなるので、「もうここには用がないからそろそろ出るよ」というが、そうもいかないだろう。

同じ敷地の別棟に暮らしている息子さん夫婦が2人のお孫さんの学校の関係で近々引っ越してしまうそうで、がっかりしている。
やはり、いつも近くに元気なお孫さんの声を聞いているのとそうでないのとでは、生活の張りが違ってくるのは想像に難くない。
そんな環境の変化の予告は、病床に伏しているご老体には特にこたえているようである。

「息子さん夫婦と言えども独立した存在ですからねぇ」と慰めにもならないことを口にしても、優れて聡明で、極めて意思強固の人だけに、「その通りだなぁ」と言うものの、納得していない様子である。
愛犬との“2人暮らし”に戻るのかというと、その辺は息子さん夫婦も気にかけているのか、何と息子夫婦の住んでいるところにお嫁さんの両親が引っ越してきて暮らすように仕組んでいるようなのだ。
そのことも表情を憂かないものにさせている要因の一つのようである。

息子さん夫婦も老いた父親が一人暮らしに戻ることを気に掛けていると見るべきなのだが、引っ越し先は同じ市内の、わずか2、3キロしか離れていないところなだけに、傍目に見れば、わざわざ引っ越す必要があるのかという疑問も湧くのである。
まぁ、そういうことも当事者間では話題に上がっているのだろうから、門外漢が口を挟むことではない。

この大先輩は、かれこれ10年近く前になるが、最愛の奥さんとお嬢さんを突如失うという悲劇に見舞われているだけに、その余波というべきか、波浪は未だ治まらず、時々盛り上がって押し寄せてくるかのようなのだ。
心のひだというものなどを辿ることが出来れば、何冊かの小説が書けそうな人生なのである。
そんなこともあって、時々顔を出してバカ話をしてくると、とても喜んでくれるのである。
しかし、今回の入院のきっかけとなった骨折は、そのバカ話をした折にお互い飲み進んでしまい、その結果、見送りに出てくれた大先輩が足を取られて転んだことが原因である。

糖尿の症状を改善し骨折治療も終えた暁には、入院などなかったように、再びせっせとバカ話をしに通わなければならない。
もう梅の花もだいぶ咲き進んできたし、春は忍び足ながら着実に近づいてきているようである。
大先輩自慢の庭の2本のサクラの咲く頃には、またお宅に伺って杯に花びらを受け止めながら、花見としゃれ込みたいものである。


酒瓶を股に挟んで酔い潰れるピエロの人形に午後の日差しがスポットライトのように差しかけていた。
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