甘夏の実を収穫した。
今年は17個。
木がまだ大きくなく、ボクの背丈(173cm)程度しかないので、そんなものだろう。
実の大きさも粒ぞろいで、直径10cm~11、12cm程度と手のひらサイズの手ごろの大きさ。
とは言え、枝先に実をつけた枝はここ数か月、重さに枝をしならせ、常にブラブラ揺れていたように見えた。
誠にご苦労様な事であった。
以前、市中をわがもの顔にしているタイワンリスに内部の果肉の部分だけきれいに食べられ、その残骸を見つけた時は「おのれっ、タダで済むと思うなっ!」と頭にくると同時に、あまりに奇麗な食べっぷりに「そうだろう、美味かったはずだ」と悔しいけど納得もしたものだった。
幸いなことに、あれ以降、被害はない。
早速味見してみた。
ネットなどの記述によると「1か月くらいは暖房のない場所で新聞紙などでくるんで置いて置くと、酸味が抜けて美味しくなる」そうだが、そんなことをするまでもなく、たっぷりの水分を含んだ実はさっぱりとした甘みが口中に広がり、これぞ甘夏!と納得の味である。
しかも、絶妙なことに、気になった酸味が、さっぱりとした甘みとともにほのかに漂い、「この酸味がむしろ効いてるんだな♪」「 味を引き締めてるじゃん♪」という具合に大活躍している。
この酸味があるからこその甘夏、そう言わしむるに十分な、納得の酸味と言っていい。
世の中は何でもかんでも甘め甘めに傾いていて、果物の味だって本来の自然の甘さやおいしさをかなぐり捨てて、ただ砂糖まみれにしたような、のっぺらぼうの顔のない甘さばかりが大手を振るようになってしまった。
ただ甘ければいいならシロップ漬けでも食べてりゃいいのだ。
自然界はもっと爽やかで、たくさんの要素が上手に引き立て合って味を作り出しているのだから、そういう微妙な違いも味合わなくっちゃ、この多種多様な種類の果物を楽しめないじゃないか。
昔のコタツミカンの中には、思わずしかめ面になってしまうような酸っぱい実も混じっていた。
でもあの酸味は体に効いたはずだぜ。
見て見て! この張り、この艶♪
おまけ 円覚寺・黄梅院のスイセン
黄梅院のワビスケ
黄梅院の蹲