鎌倉宮ではカワヅザクラが満開になっているという風の便りに、「へぇ~」「もう!」と出かけてみた日のまだお昼前のことでございました。
風の便りどおり、境内の入り口に立つ赤と白のツートンの鳥居の脇でカワヅザクラは満開でございました。
そして、年初の事でもあるし、一応、お賽銭でも上げておこうと本殿に向かったのでございます。
観光客が押し掛ける鶴岡八幡宮とは異なり、この鎌倉宮はやや不便なところにあるせいか、人影もまばらな神社なのでございます。
そういう立地だからでございましょうか、手を繋いで歩いていた年老いた男女2人がボクと山の神の目の前で「えっ!?」「おいおい…」と絶句させられるような光景を繰り広げたのでございます。
この日は鎌倉駅までバスに乗った。
バスは始発で、ボクらが座った座席のすぐ前の席に白髪頭をぼさぼさにした80過ぎと思しき老人が座った。手には正月飾りを入れたビニール袋を提げている。
バスのステップを上がる足取りはおぼつかなく、席に座る際にも手すりをしっかりつかんで座るという、ヨボヨボぶりである。
ツルッパチ(鶴岡八幡宮)にでも正月飾りを返しに行くのだろうと思った。
ボクたちもツルッパチで古いお札を納め、お参りした後、荏柄天神社で孫娘の高校合格祈念をし、三社目の鎌倉宮に立寄ったのだった。
本殿の手前で、女性の手をしっかりと握った見覚えのある老人が横切るのを見た。
「あのジジイ、一緒のバス停から乗って来たジジイじゃないか」
「バスには一人で乗ってきたはずだが…」
そう思いつつ、見るとはなしに眼の端で姿を追っていると階段を降りずに、山に沿って伸びている側道のような方向に歩いていく。
ヨボヨボしているので階段が苦手なのか…、だから回り道でもしているのだろうか…などと思う間もなく、男がやおら小柄の女性を包み込むように腕を回して抱きしめたかと思うと、いきなり女性の顔に自分の顔を押し付けるような姿勢になった。
その一連の動作によどみはなく、随分と経験を積んだであろう華麗ともいえる動きだった。
そのせいもあってか、女性は女性で抵抗するそぶりは見せず、むしろ進んで身を委ねている感じでじっとしている。
それも一度ならず、歩き出しては止まり、その都度抱擁と接吻を繰り返す。
まるで付き合いだしたばかりの中学生か高校生のカップルが、人目はあまり気にせず求めあっているかのような雰囲気である。
あけすけともいえるロージンカップルの行為を目の前で見せつけられた山の神は大いに驚きあきれた末に、「でも、どういうわけだか薄汚さは感じなかったわね」と言った。
何のハバカリも無いような老人の立ち居振る舞いが、逆に天真爛漫で無邪気な光景に映ったのかもしれない。
夫婦ならああいうところでしなくとも、家で好きな時にやれるだろうから(互いがそういう気持ちでいるのなら…)、あのカップルは普段は別々に暮らしていて、久しぶりの逢瀬にほとばしる情熱を抑えきれなかったと見るのが妥当なところだろう。
とはいえ、人の世のモラルに反する禁断の恋、あるいは不倫の恋というより、もう少し次元の違うもののような…(うまく説明できないが…)
まっ、いずれにしたって「見てはいけないものを見てしまった」というより、「ロージンの燃えたぎる恋愛感情や赤裸々な性欲のかけら」のような、満たされることのない生々しくも切実なものに抗う老残の光景を垣間見たようで、むしろ痛々しい光景ではなかったか…と今、振り返ってみるとそう思う。
高齢社会では、元気なロージンたちが若い頃との心と体のギャップに悩みつつ、あちこちで鎌倉宮のロージンカップルが見せたような無邪気にも見える痴態を繰り広げているのかもしれない。
あるいは「かくありたい」と機会をうかがい、あるいは夢見ているのではないか。
表ざたにはなりにくい、一つの重要な社会問題なのかもしれない。
そういうのを「見ちゃった」のである。
ボク? 半世紀連れ添った山の神が健在ですから…
赤裸々な光景が展開された舞台はカワヅザクラが満開の鎌倉宮境内
ボクの見たロージンカップルは階段を降りず、向かって左手の山裾に沿って伸びる細道へと向かった
高校生ではなく、おじいさんとおばあさんが何度も何度も立ち止まっては抱擁と接吻を繰り返す♪