大学に入学した今から約半世紀前、文科系のサークルに入って半地下のようなところにあった部室をのぞいた時、壁に書かれていた落書きに目が止まった。
落書きは長い年月の間に書き加えられ上書きもされたらしく、びっしりと壁を埋め尽くしていたが、そんな落書きの洪水の中で目を引いたものがあった。
「ふぅ~ん、大学生ってこんな落書きするんだ」と思ったのが「サヨナラダケガ人生ダ」の10文字。
大方、書いた張本人は恋にでも破れてやけっぱちの気分の中でこの言葉に出会って大いに共感し、世界中の不幸をたった一人で背負ってでもいるかのような気分で肩に力を入れて書きなぐったものだろう。
高校時代のサッカー部の汗臭い部室に壁に書かれていた落書きと言えば「彼女が欲しい」なんてものも小さな字であったような気もするが、大概は「蹴って蹴って蹴りまくれ」とか「闘魂!」「走魂!」とかのスポ根フレーズばかりで、まったく文化的な香りとは縁遠いものだったから、その落差になるほどなと妙に納得もしたものだった。
前書きが長くなってしまったが、昨日一日中吹き荒れた雨と風はひどいものだった。
特に夜半の嵐はものすごく、ボクは一度寝入ってしまえば滅多なことでは起きないのだが、昨夜は余りの風とたたきつける雨音に目が覚めてしまったくらいだ。
日のあるうちはパソコンの前に坐っていると、鉢植えのバラの株が大きく翻弄され、ひときわ大きく開いた花が雨粒の重さで頭を垂らし、さらに強風でいいように翻弄されるのを見て、オーバーに言えばボクは正直生きた心地がしなかった。
言い換えれば、バラにとって「死」以外で一番の重い責め苦を与えられたようなもので、あれだけひどく揺さぶられたら相当なダメージになるだろう。
案の定、今朝起きて一番に見てみると、早くから咲いて直径12cmほどになっていた「セント・オブ・ヨコハマ」はガクを残して1片の花びらも残さず吹き飛ばされていた。
「空蝉」はもともと花枝が華奢で、大きく開くにつれて花首が垂れる傾向があるのだが、これに雨粒の重みと強風に翻弄され続けたからたまらない。
開き始めてまだ間もないこともあって花びらこそ吹き飛ばされてはいなかったが、花は下を向いてうなだれ、株全体の花枝の乱れようはてんでんばらばらの方向を向いてしまい、その痛々しさはとても正視に耐えない。
サクラの盛りの時期に必ずといっていいほどやって来る、花を吹き飛ばしてしまう春の嵐も悲しいが、バラの時期に降る雨も花の大敵であり、ましてや昨夜の強風が加わるとなればもうなすすべはない。
「サヨナラダケガ人生ダ」の前段には「ハナニアラシノタトエモアルゾ」という一節が加わる。
まさにその「花に嵐」に見舞われてしまった。
今日1日、ボクは暗い気分で空蝉などの鉢を眺めてため息をつくことになるんだろう。
この「サヨナラダケ…」は唐の詩人・于武陵の「勧酒」を井伏鱒二が訳したもので、名訳として知られる。
寺山修司もこの訳は無視できなかったと見えて「さよならだけが人生ならば また来る春は何でしょう」で始まり「さよならだけが人生ならば 人生なんかいりません」で終わる「幸福が遠すぎたら」という詩を残して自分自身と折り合いをつけた時期もあった。
その後、寺山は…
とはいえ、ここはボクもあの時期の寺山の肩を持ちたいと思う。
最後に于武陵の「勧酒」を掲げておく。
勧君金屈巵 キミニススムキンキクツ
満酌不復辞 マンシャクジスルヲモチイズ
花発多風雨 ハナヒラケバフウウオオシ
人生足別離 ジンセイベツリタル
右の「セント・オブ・ヨコハマ」は一片の花びらも残さず吹き飛ばされてしまっていた 左は「ブラッシング・アイスバーグ」でこれは若かったので何とか持ちこたえている
「空蝉」
これも「空蝉」 見出し写真は全体が整っている時の写真だが、もはやその面影はなく、まるで敗残兵が命からがら逃げていくような姿に変わり果ててしまっていて、とてもここには掲げられない
「ノリコ」の茎は丈夫でびくともしなかったし、花びらも何とか残っている