平方録

時を手なずける

ふと思ったのだが、わが左手首から腕時計が消えてどれくらいたつのだろう。

振り返ってみると、確か2014年の夏のことだったと思う。
40数年間、労働市場の真っただ中にあって、それなりに奮闘してきたつもりだが、その労働市場から撤退してしばらくして「そうか、もう腕時計をはめていなくても時間を確かめる必要もあまりないし、困ることもないな」と思って外したのだった。
ボクはいつだって朝起きるとすぐに、反射的と言ってよいくらい、腕時計を左腕にはめてきたんである。
もちろん寝るときは外すし、それ以外で唯一例外があるとすれば、そんなこともあまりなかったけれど、風邪をひいて寝込む時くらいだったから、肌身離さずという印象だったのである。

電車に乗る必要もないし、バスを待つ必要もない。人との待ち合わせ時間を気にすることもなくなった身には、時計を持たないということが一種の革命的な開放感として受け止められたのだ。
言い換えると、いかに時間に縛られた生活を余儀なくされてきたかという反動でもあったのだ。
人は「抑圧」から何とか逃れようとするのもである。「革命」という言葉が魅力的なのは、そうした抑圧的な事柄から身を守り、そこから抜け出すための希望の言葉であって、今でも好きな言葉なのである。
「革命」が過激すぎると言うなら「改革」でも「革新」でもいい。とにかく、事態を変え、ステージを変えるということが必要なのだ。
そうでもしなければ精神の平衡は保てないだろうし、第一、頭のてっぺんから足の先に至るまで、身体の芯までカビてしまうだろう。そんなのはまっぴらごめんである。

たかが腕時計を外しただけでオーバーな奴だと笑わば笑え。
「たかが」が「されど」は世の習い。まずは隗(かい)より始めよなのである。
隣町に行くバスに乗るのに、腕時計がなくても乗れるし、つい先だっての横浜の句会にも、時間に遅れることなく電車を乗り継いで待ち合わせ場所までたどり着いている。
論より証拠。腕時計がなくたって特段の不都合は生じないんである。

思うに、時間というものに縛られ、あるいは時間に追いまくられて生活するのではなくて、時間を手なずけてやろうという気持ちに切り替わっているからではないかと思っている。
第一、隠居の身では時間は有り余るほどにたっぷりあるのだ。何をあくせく川端ヤナギ、なんである。

ところでボクの腕時計は1973年製のセイコー社のKS(キングセイコー)という機械式である。
半自動巻きってやつで、腕を振っているとゼンマイがまかれるらしいが、それは当てにせず、毎朝、ゼンマイをまいてから腕につけるのである。面倒といえば面倒だが、そういうものだと思い込んでしまえば何の苦もない動作である。
毎朝の儀式によって、かえって愛おしさも感じるのである。それが機械式の良いところだろう。
74年ごろからゼンマイではなく、水晶の振動子を利用したクォーツ時計が出回り始めたが、耐久性能も、愛おしさも機械式に軍配が上がるんじゃなかろうか。

実はボクの腕時計は結婚記念に妻から贈られたものである。
浮気もせず、40数年身に付けてきたものだから、愛着というものもひとしおなのである。
それを外して革命気取りでいたが、間もなく3年も経とうとすると、時間の手なずけ方も身に着いたようだし、オシャレの意味合いからも再び身に付けようかと思うようになってきた。

来し方3年に一度くらい、銀座4丁目の交差点の角の時計台のあるビルまで足を運んでオーバーホールも重ねてきた。
今年もまた時の記念日の6月10日前後にオーバーホールを頼みに行ってこようと思っている。




1973年製の機械式腕時計キングセイコー ハイビート  傷がついたガラスを1度交換しただけで金属製のバンドも含めて、すべて製造時のままのオリジナル
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