春風の花を散らすとみる夢はさめても胸のさわぐなりけり
寝ぼけた頭にすぐに浮かんだのが西行の歌である。
今年は咲き始めに雪に見舞われたりした花もあったようだが、その後はうららかな日々が続いて花を散らす狼藉の風も吹かず、冷たい雨に打ちひしがれることもなく、いい塩梅だと思っていたがやっぱり「ハナニアラシノタトエモアルゾ」の井伏鱒二の名訳は生きているのだ。
盛りのサクラは大丈夫だろうか。まさか一夜にして……なんてことはないだろうが、だいぶ花びらのじゅうたんは広がっていることだろう。
于武陵の「勧酒」の和訳は目にしたことがあるはずである。
コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
その昔、入学したての大学で所属することにしたサークルの部屋に初めて入った時、部屋の壁に比較的大きな字でサヨナラダケガ人生ダという部分だけ抜き出した落書きがしてあって、随分陳腐な奴がいるんだなぁとがっかりしたのを覚えている。
どうせ落書きするなら全部書けよ、大した文字数じゃないんだからと言いたかったし、得意がって書いたんだろう神経を軽蔑したのだ。それほどまでに人生の達人なのかよ! って気分だったのである。
呑兵衛のボクはドウゾナミナミツガシテオクレっていうところも大好きなのだ。
本音はナミナミツイデオクレだけれど…
昨日は朝食を済ませた後、新聞を斜め読みしてすぐ家を出た。
わが家から見える山を含めて幾重にも重なり合う山々に点在するヤマザクラがパッチワークのように存在を主張し始めているので、今の内だろうと山に分け入ったのだ。
特に確かめておこうと思ったのは常盤山に連なる一帯で、生えているヤマザクラの足元で花を愛でたいという地元の有志が人の背丈を越えて密集していたナントカという笹を刈って道を作り、広場を確保したところがあり、実際にどんな具合か確かめに行ったのだ。
春霞に包まれてしまっていてぼんやりとしか見えなかったけれど海も見えたし、はるか彼方には富士山の胸から上がボォ~ッとだけども見えたのだ。
街中のサクラの梢は手の届きそうなところにあって、花そのものも目と鼻の先にあるような感じだが、山の中のサクラは他の木々に負けじと枝先を伸ばすから、花の咲いている枝はずいぶん高いところになる。
そういう彼我の違いもあって、街中では親しげに見られるサクラも山の中で巨木に出会ったりするとそれだけで圧倒され、畏怖の念すら覚えるものである。
山のサクラはちやほやされていないのだ。その一点を取ってみても大きな違いがあるのだ。
今日は広町緑地に分け入って「大ザクラ」を見てこようと思う。
花の季節はあっちのサクラ、こっちのサクラと気ぜわしいのだ。
紀貫之サンと同じ気分なのである。
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし
そうそう、西行サンの「さめても胸のさわぐなりけり」について大岡信は「一面では花が散ることを惜しむ思いを込めながら、実は落花の情景そのものに、ただひたすら惹きつけられ、息をのんでその美しさに没入している心を語っている」と書き残している。
確かに満開のサクラの木々の梢から一斉に花が白い幕を引くように散るさまは圧巻で、その見事さは散る惜しさをはるかに上回るものだ。
一方で風もないのにハラハラハラハラ散る桜の風情もまた感じるところ大なのがサクラなのである。
鎌倉山から見る常盤山から葛原ヶ岡、源氏山へと連なる山並みにサクラが点在しているのが分かる
ズームするとぽっかり浮かんだ山はサクラで埋まっているような……吉野山とは比べるべくもないが、ここは峯山と言うんだそうな
民家と民家の間の狭い道を入っていくと早速ヤマザクラがお出迎え
山道を登っていくと笹が切り開かれたところに出てヤマザクラも姿が良く見える
峯山山頂も笹が切り払われ、見上げれば満開のヤマザクラばかり
近所の保育園児たちが上って来ていて、置かれた手作りのシーソーなどで遊んでいた
逗子方面を望む相模湾は春霞にかすんでいる
サクラ、サクラ、サクラ……
上を見てもサクラ
どっちを見てもサクラ、サクラ、サクラ……ヤマザクラの真っただ中
サクラとサクラの間からは遠くにかすんだ富士山が……
ボクが道端によけて園児たちが通り過ぎるのを待っていると、園児たちが手を出せと催促するものだから手のひらを出すと次々にタッチして通り過ぎて行った
足元にはタチツボスミレが咲き
ホウチャクソウまで咲き出して……
こっちではシャガまで。まだ3月だぜ
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heihoroku
高麗の犬
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