到着したのは正午の4、5分前。駅前の食堂ででも腹ごしらえをして、ぶらぶらと道を探しながら行けばいいと思っていた。
生まれて初めて降りる駅である。乗ってきた電車を見送った後、改札口を抜けてびっくりした。
小ぶりなバスが1台、時間待ちして止まっているだけで、食堂はおろか人家は一軒も見えないのである。
その昔、ここには大きな結核療養所があったそうで、妻の親せきが勤務医をしていたので駅の名前だけは馴染みだった。
今も企業名を冠した総合病院として存在していて、とりあえずそこらあたりまで行ってみようと思い、止まっていたバスの運転手に聞いてみたら、このバスは行かないという。
でも親切にバスから降りてきて、どのバスに乗ればいいか教えてくれたが、待ち時間が45分もある。無料のシャトルバスもあったが、それも25分近く待たなければならない。
切羽詰まった思いで、スマホの地図アプリに目的地を入力したところ、駅から3.7キロのところだということが分かった。
なんだ、大した距離ではないではないか。歩いたって4、50分の距離である。
駅は箱根外輪山の山すそに位置しているらしく高台にあって、南に特徴的なでこぼこした山並みが見える。その先は駿河湾に続いている。
駅を出て坂道を下っていくとようやく人家が現れたが、食堂はおろか商店らしいものも見当たらない。今度はしばらく坂を上っていくと交通量の多い道に出、結局35分ほど歩いたところに件の病院はあった。
さすがに病院前には何軒かの飲食店があり、しばらく進むと立派な町役場も目に入った。目的地はここからすぐである。
寺の名は修禅院という。臨済宗円覚寺派の末寺で、こじんまりした質素な寺だった。
前日の日曜日にあった円覚寺の日曜説教座禅会で説教をした若い和尚が冒頭、ここの和尚が昨年末に亡くなったという話をしたのである。
自ら90歳を超えていると話すとおりの老僧で、どうにも話のつじつまが合わないようなところもあったが、人を食ったような、それでいて如何にも禅宗の老僧の持つ一種独特の雰囲気の坊さんだったので、よく覚えていた。
だから一度、その和尚の暮らす寺とやらを一度のぞいてみたいと思っていたのだが、なかなか神輿が上がらなかったのである。が、亡くなったと聞いて、これはいくしかないと思い定めたのである。
昭和30年代か40年代の初め、無住だったこの寺にやってきたころは荒れ果てていて、檀家もろくに無く、食うに困り、畑を耕して野菜を育て、近所の農家に見習って鶏、牛、豚、ヤギを飼い、自身は高校の先生となって生活を立てたそうである。
そういう暮らしぶりを耳にした当時の円覚寺管長・朝比奈宗源老師から「お前は馬鹿だなぁ。もうすこし円覚寺で我慢していれば、もっと条件の良い寺が見つかっただろうに」と言われたんだそうである。
その時に「人にはそれぞれ分際というものがありますから。私にはちょうど良いのです」と答えたという話を聞いて、あぁ、そういうお坊さんだったのかと、寺をのぞいてみたい気持ちが一層募っていったのだ。
草取りが好きで、時間があれば何時間でもしゃがみこんで草を抜くのが楽しい、と言っていた。草を抜くために地面をはいつくばっていた寺を見てみたいと心底思ったのである。
たどり着いた寺に山門はあった。しかし、失礼ながら貧相な、みすぼらしいと言っては語弊があるが、質素極まりないシロモノである。
その門前に真新しい板に書かれた「山門不幸」という文字が目に入る。
「廣道和尚12月15日示寂」と書き添えられていた。
安藤廣道和尚。実は名前はおろか、寺の名さえ知らなかったのである。生前の口ぶりから伊豆函南辺りの臨済宗の末寺だろうと思って探し出したのである。「南箱根」「南箱根」と耳慣れない言葉を発していたのである。
念のため、本堂脇の住職の住居に違いないと思われる建物の玄関を開けて、出てきた息子のお嫁さんと思しき女性に確かめたところ、間違いないということであった。
3月の説教座禅会で話す内容を書いた下書きが残っていました、とも言っていた。
数え年の94歳。胸だかおなかの動脈瘤の破裂による最後だったらしいが、苦しむことなく眠るように逝ったそうである。
毎回、説教の中身は丸暗記するのだと言い、暗記のために、引っこ抜く草にまず話の中身を聞かせてやっているのだなどと、とぼけたことを口にしていた。
その話をしたら、毎日午後2時を過ぎると必ず外に出て、草取りに精を出していたそうである。
30年以上にわたって静岡刑務所の教誨師を務め、年に1度、僧衣に革靴を履いた姿で鎌倉まで足を運び、真面目に話を聞いているボクたちを煙に巻いて惑わす愉快な坊さんでもあった。
小ぶりながら端正な佇まいの本堂である。右手には生前の主の苦労を眺めてきたであろう梅の古木があり、白い花はすでに終わりかけていたが、禅宗の厳しさをたたえたかのような、凛とした空気に包まれていた。
境内の片隅にあったキンカンの木に実が鈴なりで、1つだけ失敬してかじりながら帰ってきた。甘いキンカンであった。
修禅院本堂と白梅
廣道和尚の入寂を知らせる真新しい立札が門前に掲げられていた
函南駅の駅前広場を抜けるとようやく眼下に家並が見え、手前の山と山の間に小さく見えているデコボコの山の麓まで歩くことになった
伊豆箱根鉄道駿豆線伊豆仁田駅から三島駅へ向かう。ちょうどJRの特急踊り子を待ち合わせた
三島駅前で遅い昼飯となり、静岡おでんと店オリジナル名物のウナギコロッケを食べる
酒は安藤廣道和尚に捧げる地酒の「白隠正宗」。白隠禅師は富士山ろくの出身で、臨済宗中興の祖と称えられる江戸時代の坊さん。今年
が亡くなって1250年であり、これ以上の供養はないだろうと献杯したのである
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