低気圧の東進により梅雨前線が刺激され、関東南岸は昼過ぎから大雨になるという予報が出されていたが、朝から降っていた普通の降り方の雨は昼過ぎには止んでしまい、ついには青空が広がった。
同じ梅雨前線と低気圧は大地震に見舞われた熊本で大雨を降らせて犠牲者を出した。東京では梅雨入りしたというのに北関東の水ガメが減り続け、取水制限まで始まっているのだから、今回の雨に期待するところはあったのだろうが、どちらの地域にとってもつれない結果となってしまった。
夏至というのは、冬至とならんで私にとっては年に2回の特別な日である。
冬至は日の長さが一番短い日で、そこから寒さが本格化して行くのだが、一陽来福の日ごとに日足が伸びて行く始まりの日でもあって、冬の大嫌いな人間にとって、どん底の中にも希望を見出す日なのである。
夏至は逆に、夏大好き人間にとって「もうピークなんだよ」と教えられる“悲しい”日なのだが、悲しく感じるのは日足のことだけで、暑さのピークはこれからだし、本格的な夏もここから始まるといって良く、こちらも希望の日なのである。
中唐の権徳輿という詩人に「夏至日作」(夏至の日に作る)という漢詩がある。
璇枢無停運
四序相錯行
寄言赫曦景
今日一陰生
璇と枢との星は運行をやめることなく、代わる代わる巡り行く。
ちょっと申し上げるが、光り輝く太陽よ、今日からは陰の気が生じるのですよ。
璇というのは北斗七星の第2星のことで、枢とは同じ北斗七星の第1星だそうだ。景が太陽で、赫曦は光り輝くさまだそうだ。
この作者はぎらぎら輝く太陽を憎々しげに思いながら、水を差して悪たれをついているのだが、私はそういう立場はとらない。
ぎらつく太陽も夏の暑さも大好きなのである。第一、こういう季節がやってくるからこそ、夏休みという心躍る開放的そのものの制度? が生まれたのである。
ぎらつく太陽と暑さがなかったら、夏休みというものは、そもそも存在しないんである。宿題の山なんぞクソ喰らえだ。既にあんなもの忘却の彼方である。
毎日が日曜日の身にとっては夏休みはあえて必要ないのだが、それでも身体にしみついた「あの」夏休みは、何てったって特別なものなのである。
姫だって夏休みだからこそ遊びにやってくるのだ。
かくして夏至に至ったからには1日も早い梅雨明けと、ぎらぎらの太陽の訪れを待つばかりなのである。
向日葵は金の油を身にあびて ゆらりと高し日のちいささよ
これは前田夕暮の歌で、太陽が小さく見えるほど盛んな花の生命力を賛美したものだが、金の油を注いでいるのは太陽だし、花もまた夏の太陽の恩恵を浴びて、かくも盛大に育ち大輪を咲かせるのである。
真夏讃歌の真骨頂とも言うべき作品である。
そう、真夏の到来は目前なのだ。
毎年わが家に顔を出すハンゲショウ。「半夏生」は七十二候のひとつで、梅雨の末期、夏至から数えて11日目ころを指すんだそうだが、現在では天球上の黄経100度の点を太陽が通過する日を指すそうである。なんのこっちゃ?
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