昨日に引き続き、今朝も気持ちよく寝過ごした。
目覚めて見ると外はもう白んでいて、時計を見ると「4:38」という電光表示が見えた。
孟浩然の「春暁」の境地そのままだが、目覚まし代わりのラジオの調子が良くなく、音が出ていないことに今朝気付いた。
寝坊がラジオのせいだけだったとしたら、ちょっと残念な気がする。
去年10月以来半年ぶりに円覚寺の日曜説教坐禅会に顔を出してきた。
坐禅会は様々に開かれているが、横田南嶺管長の説教を聞く機会は第2日曜日に限られる。
11月は行こうとしたが急に寒くなり、トイレが近いので説教中も坐禅中も中座は周囲に迷惑だろうし、出来ることなら避けたいので日和ることにした。
説教はネット配信で同時中継で見られるし、坐禅はどこでもいつでもできる…というのが理由だが、やはりどんな場所で、どんな状況で、どんな雰囲気に包まれて…というのは大切な要素で、お寺の持つ厳かな臨場感というものは特別な気がする。
かくして凡人には「寺」という舞台装置は欠かせないものとなる。
昨日の横田管長の説教は「死をどうとらえ、いかに対処するか」という内容だった。
真正面から来た感じ。
午後から東京で開かれている臨床内科医学会で講演を頼まれ、そのテーマがこれなのだという。
かいつまんでそれをお話ししましょうといいつつ、管長さんにはいい予行演習になったようである。
死をどうとらえ、どのように乗り越えていくか…執着する心をいかにコントロールするか…は、まさに仏教の、禅宗の一大テーマであるし、横田管長は2歳の時に祖父が亡くなったのを受けて「死」について考えるようになり、以来50年余り、そのことを考え続けてきた人である。
残念ながら、その答えをここで書けるほどの筆力はないが、もう何年も管長の説教を聞いてきて耳に残っているものの中で特に印象深いものがあるので、それを簡単に紹介しておく。
曰く「シャボン玉を思い浮かべると良い」「そのシャボン玉を針で突くとパチンと弾けて表皮が破れてしまう」「表皮が敗れると中にあった空気は外の空気に紛れ、何事もなかったように静かなままである」「人の死もまさにこれと同じようなもので、表皮の外と内側にあるものは同じで、表皮が何かの拍子に破ければ、ただ何事もなく周囲の空気と混じり合うだけだ」「広大な空気の層の中にあちこちでシャボン玉が生まれる。それがボクやあなたなのであって、そこに個性的なシャボン玉の存在はあってもパチンと割れれば、そこにあるのはただの普通の空気なのだ」と。
モミジの新緑の下を抜け山門をくぐる
会場の大方丈へと向かう
開始20分前の大方丈内部
始まると200人を超す善男善女で大方丈が埋め尽くされる
年初に水が枯れた妙香池が復活していた
最奥部の黄梅院の傾斜地のムラサキハナナとシャガの共演
シラユキゲシ?とも共演
多分シラユキゲシで間違いなさそうだけど…
木漏れ日のスポットを浴びて輝くように咲いている
黄梅院の背後の山にはまだヤマザクラが何本か咲いていた
紅葉のきれいな塔頭だが新緑もまた見事
藻虹の新緑と竹林の如意庵
居士林山門
居士林の建て替え工事が進んでいる
龍隠庵のシダレザクラとモミジの新緑
総門を出て振り返るとここも紅葉の新緑が輝いている
今朝の空蝉♪
双子のアネモネは寝坊中(5:20頃の撮影なのだけど…)