こんな空模様では花見も何もあったものではなく、雫で重たくなった花房を傘の内から眺めても心が浮き立つものでもない。
サクラの時期には強い風が吹いたり、寒さがやってきたり、心ゆくまで花を楽しむには、なかなか一筋縄に行かないことが多いのだが、今年の春もまたそうした1ページが書き加えられることだろう。
様々な事情が重なって2月の下旬から休んでしまっていた円覚寺の日曜坐禅会に6、7週間ぶりくらいに参加してきた。
現役引退後に繁く通うようになって以降、これほど長い間座禅を組まなかったのはちょっと記憶にないが、以前とまったく変わることなく、す~っと入っていけたのは何よりだった。
この日は横田南嶺管長の法話のある日で、相変わらず500人を超す大勢の人が大方丈をぎっしり埋めて話に聞き入った。
話の中身は「心の平安」というようなことがテーマで、「外から見たら不幸としか見えないような状況に置かれても、朝日の美しさに感動したり、道端に咲く一輪の花を喜ぶような、ちょっとしためぐり合いをも喜べるような心を持っていれば、幸せを感じることができるのではないでしょうか」というような話であり、掃除を通して心を磨こうという運動を始めてその先頭に立っているイエローハットの創業者で82歳になる会長さんが脳こうそくで倒れて不自由な体になってしまい、心境を尋ねたところ「12歳で終戦を迎え、それ以降70年間も元気に働けたことの喜びと感謝しかない」という答えに感動した、とも語っていた。
こうした話を通して強調したかったのは「喜びを感じる心を大切にしていきたい」と言うことのようだった。
ボクもそれほど大それたことではないが、現役時代に仕事で辛い状況が続いたり、歯を食いしばってもやり遂げる必要があるような状況に置かれることがしばしばあり、そういう苦しい状況が短期間で済むならいざ知らず、それが一定程度の期間続くような時は、どんな小さなことでもいいから喜びを見つけたり、楽しさを探したりして精神の平衡を保ったものである。
現役真っただ中で責任ある立場にいるときに、よりによって大病を患うようなこともも経験したけれど、いやな検査があるときなどは、検査前と後、あるいは検査最中の精神状態の変化を観察してやろうとか、その都度、何かしら楽しみとなるようなものを見つけていたような気がする。
法話終了後は坐禅の時間になるのだが、500人超の来場者のうち坐禅まで残るのは5分の1から4分の1くらいである。
一定の間隔をあけて坐るので、それでも大方丈はいっぱいになってしまう。
おまけに警策と言って、坐禅中に眠気に襲われた時や精神を鼓舞したい場合に坊さんに肩から背中付近を打ってもらうのだが、初心者と思しき参加者は珍しいものだから、我も我もと警策を求め、ひっきりなしにパンパンという大きな音が響くのである。
とても静かに坐禅を組む雰囲気ではないんである。
で、大方丈を離れて隣の信徒会館の2階でもいいという案内だったので、そちらに回ってみたら、静けさを求めたのはボクを含めて13人。
ガラ~ンとした空間に座り続けること40分。「時間です」という言葉で気づくまで、それこそあっという間に時間が過ぎ去った感じで、思いのほか集中できたのは収穫だった。
久しぶりだったので足がどうかなと思ったが、人間には少々のブランクは無関係なようである。
円覚寺境内の満開のサクラも雨に打たれていた
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