今回の場合は酒席。
午後6時から飲み始めて11時半まで、やはり前日同様3軒もはしごしてきた。
お陰で、家にたどり着いたのは12時半。シャワーを浴びて床に就いときは1時近くになってしまった。
それでも習い性というものは大したもので、目が覚めて見れば午前4時ちょっと前。
とにかくルーティーンだけはこなしておこうとベッドを離れたから、睡眠時間は3時間である。これではナポレオン並みだ。違うのは英雄ではないこと。
しかし、嫌々出掛けて行った飲み会か、というとさに非ず。
世話になった某上場企業の総務人事部長さんが転勤することになり、先方から是非お会いして一言お礼が…というので、ならば横浜で一席持ちましょうということになった次第。
横浜の老舗の牛鍋屋に始まり、横浜らしいバーを2軒はしごしてきたのだ。
実はもう2軒立ち寄ったのだが、何と1軒は月に1度の休み、もう1軒は改装中でこれまた閉店中だった。
こんなこともあるんである。
現役だったらこんなチョンボはないだろうが、そこは少しばかり世情に疎くなってきているのである。
しかし、話は大いに弾んで、楽しい夜になったから良しとしよう。
横浜港の北側にはいまだに米軍に接収されたままになっている埠頭があり、そのたもとにあるバーのカウンターにも止まってきたのだが、ちょっと橋を渡って埠頭内のゲートまで歩いて行くと、監視所から人が2人出てきて「橋からこちら側は立ち入り禁止だ」と追い返された。
以前は銃を持った米兵がいたが、出てきたのは日本人のガードマンである。
アメリカ陸軍が接収している埠頭で、かつてベトナム戦争の時はここから様々な物資が運ばれたほか、戦闘で傷ついたM48型戦車が運び込まれ、ここから大型トレーラーに載せられて相模原の米軍施設まで運ばれ、修理されて再びベトナムの戦場に送られていたのである。
この埠頭に通じる横浜市道に村雨橋という小さな橋があり、当時の弁護士出身の社会党の市長が道路交通法の車両制限令の条文を引っ張り出して来て、法令違反を盾に戦車輸送を止めてしまったのである。
鉄の塊の戦車を積んだ大型トレーラーは余りにも重たかったため、車両制限令の重量制限違反に該当したのである。
この戦車闘争は大いに盛り上がったことは言うまでもない。日本政府にも打つ手はなく、押っ取り刀で制限令を改正して通行できるようになるまで数カ月を要することになるのである。
そんな昔話を披露したら「へぇ~」とびっくりしていた。、
加えて、横浜港の一角に戦後70年経ってなお、日本人が追い払われてしまう地区があることにも驚いていた。
しかし、これからはアメリカの戦争の下請けを担うのである。
追い払われるどころか、ここから戦場に送り込まれる日本人が出てくるかもしれない。
そんなこと誰が望んでいるというんだ?
3軒目の海岸通りのバー
ミナトの一角の接収地に掲げられた看板
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