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平方録

百聞は一見に如かず…って

今朝も絵日記。
目は口ほどにものを言い。
1枚の写真(絵)に勝る説得力は無し。
例えば、ローマ教皇が来日して説教をした時、横に立てかけていた写真…あの広島の、息の絶えてしまった弟を背負ったまま直立不動で唇をかむ少年の姿…
戦争の悲惨さを伝える場合だって、百万語を費やしてああだこうだと文章で説明するより、たった1枚の写真が訴えて来る「力」の方が数段勝ることがしばしばあるものだ。

な~んちゃって。ボクが撮ってきて掲げる写真はそんな大げさなものでないことは明らかだが、説明するには「一目瞭然」で重宝なのだ。
文章を紡ぐのが面倒な時はこれに限る。
そう、いわば体裁の良い手抜き…ボクはそう卑下しつつ、この手法を時々使わせてもらう。
手法はさておき、テーマが昨日に続いて鎌倉の紅葉とハイキングコースの閉鎖になってしまったことは忸怩たるものがあるけれど、目につくものがこれなのだからしょうがない。
もしかして視野が狭いって事かも。

ブロ友さんが昨日のブログで円覚寺の紅葉を奇麗に撮影していたので気がひけるが、入り口の総門前が一番きれいだった。でもこの程度…
見出し写真の居士林門前は例年だともっときれいな紅葉が見られるのだが、やっぱりいま一つさえない。

総門をくぐって山門に上がる階段脇の大きなモミジは全く我関せずの知らんぷり。紅葉の「こ」の字も無い。
お前なぁ、もう師走だよ。まさか除夜の鐘と共にクレナイに染まる気か?


ボクは真夏の生まれだし、ぬくぬくとしか生きられないなぁ。
今、円覚寺では「蠟八大摂心」という禅の集中修業期間に入っていて、横田南嶺管長は雲水たちの指導で僧堂にこもりっきり。したがってボクらのようなナマクラ達は管長の提唱も聞けず、ひっそりと坐禅をするだけなのがちょっと寂しい。
(境内黄梅院の掲示板)

円覚寺から遠くないところにある鎌倉五山の一つ浄智寺。相変わらずひなびた風情の落ち着きのあるたたずまいを見せている。
前庭には四季の花が咲き乱れるのだが、さすがに今の時期は端境期と見えて寂しい。

崖下のくりぬかれた空洞に石仏が並び、竹藪越しに柔らかな初冬の光りが射しかける。

長い影法師を引いて刺しかける光は明らかに大伽藍の円覚寺のそれとは違っている。ほっこりするというか…

この寺まで来たのは寺の脇から「大仏~葛原ヶ岡~浄智寺ハイキングコース」の山道をたどって家に帰ろうと思ったのだ。
もちろん全面通行止めは知っている。でも…と一縷の望みをかけ、偵察の意味も込めてなんとか通れるものなら自己責任で、と思ったのだ。
それで拝観料を取っていた寺の人に聞いてみた。すると「無理に通っちゃう人もいますよ。でも大けがされても私たちは責任取れませんよ」と眉をひそめる。
確かに県道から浄智寺に折れる辻に上掲のような張り紙があった。
葛原ヶ丘の山頂付近まで寺の土地なのだ。
朝比奈宗源の孫で円覚寺の教学部長をしていた住職がテレビに出て「血を流しながらバツの悪そうな顔をして戻ってきた人もいました」と呆れた顔で話すのも見た。
あわよくばと思っていただけなので、こういう場合の撤退はそう難しいことではない。ボクもスンナリあきらめた。


亀ヶ谷坂に回って切り通しを抜けたら石垣の植物がきれいに黄葉していて明るく光っている。
この坂の手前に長勝寺という足利尊氏ゆかりの寺があり、珍しく特別観覧日として公開されていたが、ちょっと山門越しに覗いてみたら紅葉が今一つだったので止めておいた。
書院から眺める庭は紅葉がきれいだと素晴らしいんだけどね。

家の近くに戻ったら、閉鎖されていた自然林の公園の門が開いていた。
台風15、19号が原因で通行不能になっていたが、さすがに道をふさいでいた倒木は片づけられて通れるようになっていた。
しかし、大きな根っこまでは手が回らないらしく無残な姿をさらしている。

この場所では杉が4本折り重なって討ち死にしていた。

園丁がいたので話を聞くと、見えるところだけで十数本が倒されました。特に杉は根の張り方が浅いですからと言っていた。
よく見るとなるほど、遠目で50~60センチくらいしか根鉢が無かった。あれじゃァひとたまりもなくなぎ倒されてしまう訳だ。

倒木が多くて、なんだか空が広くなった…
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