結局、冒頭の15分間の坐禅、それについで坐禅を組んだまま横田管長の伝心法要提唱を聞くこと55分、そして最後に15分の坐禅。
合わせて85分間、坐禅を組んだままじっとしていたわけだが、帰りは松葉づえにも頼らず山を降り、車いすに非ずして自転車を漕いで帰ってきた。
それなりに痛いことは痛かったが、右ひざに関してはヘタにひねらないように気をつけたお陰で、坐り通せたのである。
むしろ、背筋を伸ばして坐っている姿勢にどこか無理があったのか、右の首筋の下あたりから背中にかけての筋が凝ってしまって、これが痛くなって気になってしまった。
脛と太ももを圧着させて坐る正座は膝が深く折り曲げられるため、痛くてできないが、坐禅で膝を折り曲げる程度なら問題ないことが分かりホッと一安心である。
かくしてひと月ぶりの坐禅はつつがなく終了し、一抹の不安を抱えて臨んだせいか、心もしゃんとしていたようで、普段より集中力が高まっていたように思えたのは、思いがけない収穫だった。
提唱の中で「汝が心を障するが故に因果の管束を被り、去住して自由の分無し。」という一節が出てきた。
自分の心が次から次へと取るに足らないことにこだわり、それによって心が囚われるようでは、本当の己というのは見つからないのだ、というような意味らしい。
此処で登場する「自由」という言葉、西洋の「自由」が「フリー フロム ○○」であるのに対し、東洋の「自由」は「自らによる」というところから発しているのが大きな違いであって、随分と意味合いが異なって来るのですと説く。
禅の世界、仏教の世界では、「衆生本来仏なり」であって、生きとし生けるものは皆、生まれながらに仏の心を持って生まれてくる。それに気づくかどうかが問題で、気づきさえすれば仏の心そのままに生きていけると説くんだそうな。その仏の心とは「慈悲の心」だそうである。
よって、この仏性に目覚め、慈悲の心に気づくためには、あいつは俺の邪魔ばかりしているとか、あいつのせいで俺は今こんな思いをしなくてはいけないんだとか、あの人はお金持ちなのに何で俺は貧乏なままなのだとか、実につまらないことにこだわって、そのことに心を囚われているようでは、「自らによる」どころではない、ということになる。
さらに読み進むと、「但、縁に隨つて舊業を消し、更に新殃を造ること莫れ、心裏明々たり、所以に舊事の見解總て須らく捨却すべし」と出てくる。
横田管長曰く「次から次へと湧きあがってくる取るに足らないことに心を奪われていたのでは『自らによる』どころではない。こだわる心、囚われる心を捨て去ってこその『自由』なのです。これが今日のところの一番肝心な話であります」と。
「う~む、そうか…」と呻りつつ山門を後にしてきたのである。
円覚寺居士林の庭
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