もちろん午前4時を過ぎたばかりだから外は暗いが、雨戸を開けて外の空気に触れたら雨が降っているうえにヒンヤリするものだから試しに計ってみたのだ。
部屋の中はそれでも23.4度あるからまずまずなのだが、さすがに20度を割ってくると短パンは無理だろう。
このままだとボクの夏の制服も衣替えを余儀なくされるかもしれない。まだ9月2日だぜ。
いつもの年ならまだ暑さにうだっているっている時期なのに…
現に一週間くらい前に電話連絡があった友人に暑気払いでもやろうやと声をかけたのだが、払うはずの暑気が消えてなくなってしまったのだから話にならないのである。
まぁ「暑気が消えてしまった残念会」とか「炎帝を偲ぶ会」とか理由はいくらでも付けられるのだが、それをやるにしたって一度は正当な暑気払いというものを経た後でなければ、そういう試みも味わいというものがないのだ。
通夜の酒盛りではないのだから、そんな意気消沈したような飲み方はまっぴらごめんである。
で、何となくその気になれず約束は放置したままなのだ。
何事によらず物事には順序というものがあるのだ。
秩序と言ってもいい。
梅雨が明けて夏が来て、入道雲がわいて暑さにしおれかけて、それでも汗を拭きながら冷えたビールなどをグビリとやれば暑さは退散したものである。
それも冷房の効いたところでやるのではなく、まだ熱気の残る外気に触れながらのどを通過していく冷えた液体の感触を楽しむのがまたイイのだ。
そもそも今この時期は二十四節気のうちの「処暑」のはずである。
手元の大辞林によれば処暑とは「現行の太陽暦の8月23日の頃。暑さがやむの意で、朝夕しだいに冷気が加わってくる」とある。
ここで注意したいのは「しだいに」という表現であって「一気に」とか「どんでん返し風に」と書かれていない点である。
やはりここは言葉の定義通り「しだいに」進めていってほしいものだと、しみじみ思うのだ。
昨今われわれは自然現象に限らず人の世の出来事一般についてだってどこかの国の45代大統領の天衣無縫なふるまいとか、自分の国のお友達特別待遇政治などのやりたい放題や自分が気に入っている勝手な憲法観を押し付けられかけても特段抵抗するわけでもなく、へらへらと笑って見過ごすかのように何とも感度の悪さをさらけ出してしまっているのである。
そうした鈍感さへの天の警告の一種なのかと思えば、それはそれで納得のいく話なのだ。ただ、どれだけの人がそれに気づくだろうか。
話は思わぬ方向に飛んでしまったが、言いたいのは物事には順序というものがあり、それも「しだいに」という表現に沿って進んでいくのが好ましいのだ、という辺りである。
秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風のおとにぞおどろかれぬる
好きだなぁこの歌。藤原敏行の作で暑さの盛りの立秋の頃を詠んだものだが、この歌でもわかるように変化というものはいきなり顕著な姿で現れるものではなくて、ほんのかすかな気配を「おやっ」と思わせ、その兆しを感じさせながら徐々に表れてくるものなんである。
そこのへんを忘れてもらっちゃぁ困るのだ。
秋来ぬと……
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