今日は脳のMRI検査を受けに行く。
2000年6月1日にボクは「決死の覚悟」で手術台に上がり、開頭手術を受けたのだ。
その数か月前にかかりつけの医師からMRI検査を受けることを勧められ、気軽に応じたのだが結果を聞いて驚愕させられた。
直径7ミリもの大きさの動脈瘤が出来ていることが分かり、しかも血流が二股に分かれる場所で、常に圧力のかかる場所に出来ているという。
つまり、破れやすい場所であるというのだ。
実は母親が54歳の時にクモ膜下出血で亡くなっていて、その父親も50代で脳溢血で亡くなっていたのだ。
その遺伝的要素はボクにも伝わっているというのが、かかりつけだった女医さんの見立てで、手術を勧められたのだ。
MRI検査を受けたのはボク自身だが、まさかそんなものがあるとは思わず、実にノー天気に結果を聞きに行って青天の霹靂の如き結果を知らされたのだった。あの時は本当に驚いた。
放置しておいて、仮に破裂した場合の生還率はどのくらいかと聞くと、何と14%だという。
どうしてそんな細かな数字になるのかと、ちょっぴりおかしかったが、厳粛な数字と受け止め、どうすればいいかと尋ねると、いとも簡単に「開頭手術が一番よ」と。
カイトウ シュジュツ。
イメージとしては頭蓋骨の一部を外し、脳ミソをさらけ出して…
何というおぞましさ。
実際は頭蓋骨に直径3~4センチくらいの穴をドリルと糸鋸のようなものを使って開け、そこから器具を挿入してやったのだが、説明を聞くだけで血の気が失せるようだった。ボクは気が小さいのだ。
で、とにかく腕の立つ執刀医を紹介してと頼み、相模原にある北里病院のゴッドフィンガーにたどり着いて拝み倒し、手術してもらった。
救命救急センターの副センター長をしていたバリバリの先生で7月の沖縄サミットで万が一サミット参加国の首脳らに異変が起こった場合に対処する脳外科医の一人として現地に待機するというので6月1日の手術日になった。
お陰で手術後はなんの後遺症も残らず、以前と全くまったく変わらぬ日常を送ることができているという点において、動脈瘤を発見してくれた女医さんとゴッドフィンガーの持ち主の執刀医はボクの命の恩人なのである。
当時ボクは会社でも激務と言われるポストに就いていて大勢の部下を抱え、寝る間も惜しんで働くような状態だったからいつ血圧が急上昇して血管が破裂するか分かったものではなく、動脈瘤があると知らされた時から時限爆弾を抱えて仕事をしているような気分がとても嫌で、とにかく〝まな板のコイ〟になって手術台に上がる覚悟だけは決めていたのだ。
本心を言えばとても怖かったが、仕方ないとあきらめ腹をくくった。
4~5時間で終わると言われていた手術は8時間を超え、付き添いの妻と下の娘は大丈夫かと大いに気をもんだらしいが、ボクが気が付いたのは術後の集中治療室に移ってからで、その時枕元にいたゴッドフィンガーに掛けられた言葉が忘れられない。
「右腕を上げられますか?」「じゃ次に左腕」「うん、大丈夫ですね」「じゃ次に右足はどうですか」「ハイ、左足は? 」「良かった、ちゃんと動きますね」
この時もそうだったが、さらに退院して家に戻った後、風呂に入って浴槽に伸びたつま先を動かして何の問題も無く指が動いた時は、無事に生還できたことをしみじみ感じたものだった。
虎口を脱した、と思った。
これは笑い話だけれど、無事に生還した後ボクは同僚たちに言ったものだ。
「オレはな、頭に風を入れてきたんだ。神社仏閣でもやるだろう? あの風入れだよ。宝物にカビが生えないように、虫に食い荒らされたりしないようにするあれだよ。人間の場合は脳の回線のつながりが以前より良くなるぜ。騙されたと思って一度頭を開け風を通して来たらどうだ」と。
経過観察を兼ねた脳ドックを受け、頭を固定されて閉じ込められた装置の中で、耳元で金属製のバケツをガンガンならされるような騒音やら何か硬いものがゴンゴン打ち鳴らされたり、この世の耳障りな騒音を全部聞かされるような中で検査の終わりを待っていると、あの19年前の出来事がしみじみと蘇って来る。
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