とはいえ、ここに行き着くまでには那須野原の広々とした平地を走り抜けてこなけらばならず、芭蕉たちの一行が「人々すすんで共にいざない、若き人おほく道のほど打ちさはぎて、おぼえず彼の梺に到る」と奥の細道が記しているように、にぎやかに談笑しながら進んできたので遠い道も苦にならなかったようだが、もしそうでなかったら行けども行けども目的地が近づいてこないという大変な思いをしたことだろう。
臨済宗妙心寺派の東山雲厳寺。
深い山の中ではなかったが、寺の山門をくぐるためには手前の谷を流れる清流を越えねばならず、越えた先の伽藍は急な斜面にへばりつくように建てられていて、人里離れた深山幽谷を思わせる佇まいの中に静まり返っている。
谷を隔てたところから見た寺は͡木の間越しに山門の一部が見えるだけで、思わず「おぉ、これがあの芭蕉をして足を運ばせた寺なのか」という思いに胸が高鳴る。
谷に近づいてみると渓流を覆うモミジが赤く色づき、反り橋の朱塗りの欄干と覇を競うようでもあり、なかなかのしつらえである。舞台装置としてはかなりの高得点ではないか。
反り橋を渡り切っていざ階段を上ろうと見上げる山門は、はるかかなたの雲に隠れるかと思わせるくらいに高くそびえ、階段を上る足がすくむような思いにさせられる。
山門の柱や板壁の一部は苔むしていて、谷沿いに建てられた建物が年月を経るとこうなるのかと思い知らされたのが、この寺の置かれた様々な「環境」を暗示するようで印象に残った。
時期によっては谷霧が深く立ち込め、辺りを覆うのだろうか。
ここには拝観料を取る門番もいず、案内のパンフレットの類も一切なく、古びた境内案内図というのが掲げられているだけである。
そう、ここは京都・奈良や鎌倉など観光地の寺とは異質の世界で、禅の修行道場なのだ。
わけても日本における4大道場の一つとして知られた古刹で、確かに寺全体の雰囲気はかくやと思わせるに十分な雰囲気が漂い、霊気のようなものを感じさせる。
芭蕉がこの寺を訪れたのは江戸・深川で暮らしている時に知り合った坊さんがここにゆかりの佛頂和尚という人だったという縁からだが、その佛頂和尚の下で1年半にわたって参禅したそうだから、やはりそのゆかりの寺というものを一目見たかったようである。
奥の細道の記述…
「さて、かの跡はいづくのほどにやと、後ろの山によぢのぼれば、石上の小菴岩窟にむすびかけたり。妙禅師の死関・法雲法師の石室をみるがごとし。
啄木も庵はやぶらず夏木立
と、とりあへぬ一句を柱に残し侍りし」
きつつきもいほはやぶらずなつこだち――という1句を書き残している。
寺をも突き崩してしまうと言われるキツツキも、さすがにかの佛頂和尚の庵には敬意を表したようだ、と詠んだんである。
芭蕉の句、わけても奥の細道で詠まれた句というものは芭蕉が実際にその足で立ったであろう場所に行ってみて、同じ景色や雰囲気を味わって初めて納得出来たり、あぁなるほどなぁと共感出来たりできることが多い。
この寺の開基は円覚寺の仏国国師であり、一時期は北条時宗が大旦那を務めた寺でもある。
そういう意味でも印象深い雲厳寺であった。
対岸からは雲厳寺のこの光景のみが木の間越しに見える
谷川には反り橋がかかり
禅語に「楓葉霜を経て紅なり」とあるとおりの色付きが見られ
山門は天を突く階段の上に頭上に覆いかぶさるようにそびえ建つ
仏殿があり
さらに上方には方丈(右)と禅道場(奥)が並んで建つ
禅道場は周囲とはさらに隔絶されている
仏殿の屋根越しに山門を見る
仏殿のある広場の端に芭蕉の句碑が建つが文字は判読困難である
境内側から山門の裏を見ると
柱は板壁は苔むしていて京や奈良、鎌倉の寺ではあまり見かけない景観を見せている
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