暮れから4日までは暖かい日が続いたから、寒さはひとしお身に染みる。
昨夜寝る前の寝室の温度は、屋内だというのに10度しかなく、年に数えるほどしかない震える寒さである。
かといって折からの雨が雪に変わることもないのだから、大した寒さではないのかしらん。
8日の日曜日は円覚寺で今年最初の説教座禅会が開かれ、今冬初めて防寒のためのタイツをはいて出かけた。
説教中はストーブの暖房があるのだが、坐禅の時間になるとストーブは切られてしまうので、だだっ広い大方丈の片隅に坐っていると、寒さはしんしんと忍び寄ってくるのである。
1時間程度だから、寒さは何とかしのげるとしても、トイレを我慢するのは容易ではない。
それでタイツをはき、小ぶりの簡易カイロを下腹部と腰に2枚づつ張り付けて出かけたのである。まぁ、重装備といって良い。
おかげで寒さも尿意も心配なく過ごせたが、やはり寒さは苦手である。
坐禅終了後、低く陰気に垂れこめた雲の下、一瞬寒さに負けそうになって、電車とバスを使って帰ろうとしたが思いとどまって、4キロの道を歩いて帰ってきた。
逡巡したのは寒さに加えて、北鎌倉から梶原に抜ける道が曲がりくねった長い上り坂で、結構息が切れるのである。
思いとどまって歩いたのは、この曲がりくねった長い坂の心肺機能に対する負荷が強く、格好のエクササイズになると考えたからである。
午後からは雨の予報だったし、今のうちに体を動かしておこうという算段である。
半ばやけ気味に早足でずんずん上っていったのだが、息は切れるが汗をかかないのだ。
比較的厚着をしているのだから、汗をかくだろうと思ったが外れた。
どうやら体の発熱量が一時期に比べて著しく落ちてきているのである。
例えば、寝るとき。去年までは半そでのTシャツとパンツだけでベッドに入り込み、ものの2、3分もあれば布団の中がポッカポカに温まったのだが、今年ばかりはそうならず、身体を縮こまらせてじっとしているのである。
掛け布団は羽毛布団1枚だけで、妻は毛布を使えというが、毛布は嫌いなのだ。第一これまでそんな必要がなかったじゃないか。
これはどう見たって、わが肉体の発熱量が落ちているとしか考えられない。
ではなぜ急に発熱量が落ちてしまったのか?
専門家に聞けば一発で答えが出るのだろうが、考えられるところでは新陳代謝が不活発になっているのではないかという懸念である。
正月を一緒に過ごした姫などの孫たちは驚くほどの薄着である。
暖房を利かせると暑い暑いと大騒ぎになり、挙句は寒さに耐えられない大人の都合で、最後は下着姿になってしまうほどだったのだ。
つまり、ぼくの発熱量が落ち込んだのは、新陳代謝の不活発による部分が大きいのではないかという推察である。
何のことはない。「燃えない」のである。これはどうやら年寄りに共通した現象で、ジジイへの道をまっしぐらに突き進んでいるらしいのだ。……何ということでしょう。
老年学会とかいうところが、老人の定義を75歳以上にしたらどうかという提言をまとめたそうだが、医療や福祉予算を抑えようと躍起の政府の手先のような提言はやめて、発熱量でその線引きをした方がより科学的なんじゃないか?
新陳代謝を数値化したり、発熱量を測定したり。で、あなたの発熱量は□□□キロカロリーを割っているから正真正銘の老人ですとか、あなたの発熱量は×××キロカロリーだから、老人予備軍ですねとか…
80歳でも90歳でも▽▽▽キロカロリー超の働き盛りに匹敵する代謝力を保っていれば「スーパー老人」などと呼んで尊敬すればいいのである。
指をくわえてないで、ボクも代謝力を上げようっと。
円覚寺の仏殿脇にある梅が開花していた
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