四国行きの列車の指定券を買いに出かけたのさ。
最初は車をパーキングに停めてみどりの窓口に向けて歩き出したところで3割引で切符を買うための会員カードを忘れてきたことに気づいた。
仕方なく一度家まで戻り、カードを引き出しから取って今度こその思いで窓口のカウンターに立った。
すると今度は、3割引切符の購入に必要な“パスポート”の有効期限が9月いっぱいでは10月分の切符は売れないと言う返事が返ってきた!
そんな注意書きどこに書いてあるんだ、不親切じゃないかと言う言葉が喉まで出かかったが、窓口の係員はマニュアル通りの応対をしているだけだろうから「規則です」と言われたら、引き下がるしかない。
そこをなんとかと言って、どだい通用する世界ではないのだ。
確かに10月から使える“パスポート”は郵送されてきて手元に届いてはいる。
でもその有効期限は10月からだとばかり思っていた。
思い込んでしまった方が悪い。
おまけにドジは1度ならず2度までも…
実はこれ以外にも意に沿わない無茶苦茶な目にも遭いかけたし、ここ数ヶ月というもの何かにつけてイラつくことが増えていた。
そうしたモヤモヤした空気がこの日凝縮されて吹き出したようでもあり、何とかしなくてはならないなという気分にもなった。
このままではもたないな、という切羽詰った気にもさせられたというわけなのさ。
巷ではまた三連休だそうだが、土曜日の午後にも円覚寺では坐禅会が開かれていることを思い出した。
いつも日曜朝の坐禅会に行っているのだが、気分も雰囲気も変えてみるのも悪くない。
日曜日の会場は大方丈の大空間だし、横田南嶺艦長の法話や提唱も聞けるが、第4日曜日には顔を見せない。他の坊さんが変わって話をするのだが落差は大きい。
かたや土曜日の会場は在家のための禅の修行の場として設けられている「居士林」である。
今から53年前の高校3年生だった7月、坐禅に興味を抱いていたボクが初めて円覚寺の門をくぐり10日ほど坐禅をさせてもらったのがこの居士林なのである。
いわば原点、聖地と言っては大げさだが、思い出の場所なのだ。
そこでまた座ってみたくなったというのも正直なところかもしれない。
一度だけ日曜坐禅会の会場がこの居士林に変更になったことがあるが、それっきりである。
53年前と全く違わない外観は普段から目にしていたが中に入るのは2度目。最初は寺側の都合だったが今回は自らの意思ということになる。
禅ブームを反映してか内部は坐禅スペースが増えていたほか、いくつかあった部屋も仕切りが外され、広々したスペースに変わっていた。
1時間という短い時間だったが4、50人も集まった参加者は経験者の部だったこともあって、実に端然と物音一つしない静寂のうちに坐っていて、雰囲気はとても良かった。
日曜日は初めての人も大勢加わるから、なんとなくざわついたような曖昧な空気が漂うものだが、さすがだと思った。
ボクの気持ちの揺れ方からすると、じっと坐っていられるだろうかと一抹の不安は感じていたのだが、その心配は杞憂だった。
坐り終えた後、それまでとを比べてみると少し気持ちも平らになったような気がする。
少し気持ちが落ち着いてきたということのようらしい。
未だにニンゲンができていないから、時々じっと坐って心のうちを覗き込まないと平衡を保てないことが改めてよくわかった。
それを再認識したってこがそもそも情けないことなのだが、現実は消しようがないものなぁ…
見出し写真は居士林の外観。800年の歴史を刻む禅寺の建築物とは明らかに異質なこの建物は東京・牛込にあった柳生新陰流の剣術道場を戦前に移築したものが、そのままの姿で生き続けている
昭和初期の新陰流当主から寄贈されたという
この写真は裏側からみたところ
仏殿の横に茅葺の選仏場と隣り合って建っている
居士林の屋根と右手のモミジの中に茅葺の山門が見えている
12月になると山門はモミジの紅葉に染まる
なかなか立派な門構えではある