こういう気分を味わえない、というか、知らないでいる若者たちが気の毒でならぬ。
一体全体複雑さを増す世の中に羅針盤のない船で漕ぎだそうとするくらいに危険なことだと思うのだが、悲しいかなそういう自覚もないようである。
どだいネットなんぞというものは、自分の好みのものを探し出すには便利かもしれないが、どうしたって単眼的にならざるを得ないし、思いもよらない角度からのものの味方というものは絶対に身につかないだろう。
そんなものをいくら頼りにしていたって、羅針盤のない船状態から抜け出せるわけではない。
余計なことを書いてしまったが、新聞を読めない手持無沙汰の朝は食事を終えると、後は限りなく自分の時間である。
「そうだ京都へ行こう」というのも魅力的だが、昨日は「そうだ初音を聞きに行こう」と思い立った。
都合の良いことに空はどこまでも青く晴れ渡り、風もないので、冷え切った空気さえ気にしなければ格好の散歩日和である。
風がないのだからカーディガンで十分である。スコットランド製のインバーアランの厚手のカーディガン。色は濃紺。お気に入りなのだ。
もっとも風が吹こうが吹くまいが、このカーディガンはスコットランドでは漁師が北海の荒海での漁の時に着こんでいるシロモノで、普通のカーディガンと違って冷たい風だって遮る優れものである。
だからカーディガンの下は長袖の肌着と冬物のシャツを着ていれば十分である。
昨日はこれに安物のネックウオーマーをして出かけたら、首周りを中心に汗をかいてしまった。
降り注ぐ太陽の光は12月や1月のそれとは違って、びっくりするほど明るさを増していて、それこそ横綱級の堂々たる「光の春」なのである。
陽だまりにじっとしていれば本当に暖かい。
これならばウグイスだってぼちぼち鳴き始めるだろうと思うのだが、自然界というのはなかなか人間が考えるように都合よくはいかないものと見える。
わが家周辺には緑が比較的多く残り、ウグイスが巣作りするのに適した藪なども備わっていて、最盛期になれば四方八方からウグイスはもちろん、様々な鳥のさえずりが聞こえてくるのだが、まだ全体に寝静まったままなのである。
一冬の間中、沈黙の中で暮らすウグイスの鳴き始めはたどたどしくて、オイオイ、もっと上手に鳴いたらどうだなどと言いたいくらい、つっかえつっかえ鳴くのにも愛嬌があるのだが、昨日は1時間余りの散歩の間中、初音を聞くことはなかった。
春はもう手の届くあたりまでやってきているはずなのだが、何とももどかしいことである。
春霞はまだだからなぁ…
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