明治28年、日清戦争に従軍した正岡子規が大喀血して神戸の須磨で療養した時に得た句だそうである。
当時の結核と言えば業病で、生命と引き換えの絶望的な気持ちの中にいたはずだが、そんな病を背負いこんだ病人の句とはとても思えない、印象さわやかな句である。
生命と引き換えに得た強い意思と研ぎ澄まされた神経が、多くの秀作となって表れたのだろうか。
とにかく不思議な明るさに包まれた句である。
関東は6月に入ってさっさと梅雨入りしてしまった。
時期外れの円覚寺の夏季講座の最終日、5日の日曜日のことで、気象庁によれば去年よりも2日遅いと聞かされ、意外な気がした。
それでも平年よりは3日早いそうだから、やっぱりそうかと思いつつ、それにしたって梅雨入りは6月も中旬のことじゃなかったっけ、と戸惑いは消えないのが正直なところである。
わが出身高校は古い歴史を持つ学校だったが、創立記念日が6月18日で、毎年、記念祭が開かれていて、ちょうどその頃にお定まりのように梅雨入りしていたはずなのだ。
いつごろから変化が現れたのだろう。
早く梅雨入りしたのなら、さっさと開けてもらいたいと思うのだ。カッと照りつける真夏の太陽が待ち遠しい。
夏河を越すうれしさよ手に草履
与謝蕪村の作だが、この句に魅かれるのはごく自然な、無心な少年の日の喜びが呼び戻されるから、という解説を目にしたことがあり、「そうか、だからか」と膝を打った覚えがある。
サラサラ流れる川の中に入ると、半ズボンの裾をさらに太腿の上までたくしあげた肌に、ひんやりとした水がことさらに心地よかったのを覚えている。
紛う方無き少年の日々の思い出である。
思えばこの頃から、自転車で当てもなく低い丘陵と水田の広がる田舎道をどこまでも走りまわっていたんである。
4月のころまでは時々長袖や長ズボンに着替えなければとても過ごせないような、冷涼な空気に包まれることがあって油断ができないのだが、5月を通り越し、「綺麗な風」が吹く季節になるとさすがに短パンとTシャツ1枚で安心して過ごせるようになってくる。
それこそ夏河を越すような気持ち良さで、実に快適。
第一、衣料費は安くて済むし、貧乏人にはもってこいの季節である。
水ふんで草で足ふく夏野哉
松尾芭蕉より10歳若い小西来山とい俳人の作だそうだが、この句もさわやかな句である。
確かに自転車を漕いでいる途中に小川の中に入って遊んだ後、土手の草で足を拭くのはいわば自然の成り行きだった。
真夏というのは、つくづく少年の季節なんだなぁと思う。
今朝の鎌倉は濃い霧の海の中に迎えた。
これもまた夏の特徴の一つである。
実は霧は昨夜から立ち込め始め、それが残っているんである。
こういう日はよく晴れて暑くなるのだ。
これから東海道新幹線と綺麗な風に乗り、美濃路を尋ねてくる。
わが家のバラは終わりかけているが、二番花、三番花の時を迎え、他の夏の花々も咲き始め、案外賑やかになってきた
ホタルブクロもこんなにたくさん
アジサイの色も多彩になってきた
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