曇り空で太陽が顔を出さないからとか、今日の風はことのほか冷たいからとか、あれやこれや理由を探しては先伸ばしてきた最後の1株だったが、ようやく春を迎える準備はすべて整った。
9日から始めたから、たかだか17本をせん定するのに12日間を要したわけである。
ジジイになると時間はたっぷりあるから慌てる必要はどこにもなくて、ただ気が向きさえすれば庭に出、何か気に食わないことがあればプイとそっぽをむいて手を止めるだけの話なのだ。
昨日の大寒が特に暖かかったわけでもないし、きれいな青空が広がっていたわけでもない。
本来ならプイとそっぽを向くような天候なのだが、朝食後に新聞に目を通した後、ベランダで養生している花の苗に水やりに出たところ、あれっ、寒くないナという印象を持ったのだ。
風がなかったのだ。それに曇り空なのだが、時々薄日が漏れるような塩梅で空が明るかったので、月曜日は雪模様らしいし、その後も大寒波がやって来るらしい、やるなら今の内だという天の声は聞こえなかったが、どこかでそう感じたのだと思う。
気が変らないうちにパタパタと着替えて庭に出たのだ。
ここまでは、どういう訳か自分自身の意志で動いているようには思えなかったのが、振り返ってみれば不思議な気がするが、ともかく作業を始めたのだ。
一段低くなっている隣家との境に植えてあるため、せん定枝を1本たりとも隣家側に落とさないようにするため気を遣った。
こういう気の使い方をすると、作業効率は落ちるし、せん定の姿勢にも無理が来るもので、しばしば中断して腰の痛みをなだめながらの作業になった。
でも、こうして気を遣うということひとつとっても、別に嫌なわけではない。むしろそういう気を遣わなければいけないのだという条件、制約というものを楽しむという気分が生じるところが不思議と言えば不思議である。
結局、こうした気分になるということは、せん定作業に没頭している証拠で、せん定という一事に神経を集中させているからなのだろうと思う。
ボクが庭作業を好む理由はまさにそこであって、パンジーのタネをまいたり、出てきた芽の成長を促すために、成長に合わせた大きさのビニールポットに値を痛めないように移し替える面倒な作業の繰り返しも、それをしている間は何も考えなくて済むという側面もあって、ボクはとても好きな時間の一つなのである。
これは、たまさか坐禅をするときの心構えに似ていて、僕自身はまだ到達できていないが「無」とか「空」と表現される境地に案外近いのではないだろうかと思っている。
一事について、ただひたすら何物をも寄せ付けずに没頭するということは気持ちが良いものなのだ。
今朝は8時から円覚寺の日曜坐禅会がある。雲水たちの特別修行期間に入っていて横田南嶺管長は雲水たちの指導に専念するため、いつもの提唱を聞くことはできず、暖房の全くない大方丈のだだっ広い空間の下で、ただひたすらじっと坐るだけの1時間半だが、何事をも寄せ付けずに没頭できたらいいなと思う。
日の出前、午前6時の外気温は0.7度。北鎌倉の谷戸はもっと低いことだろう。
大寒と敵のごとく対(むか)いたり 富安風生
わが家のラッパスイセンはそばかすだらけ
近所の散歩コースに咲いていたシナスイセン
バラのせん定をしていたら足元に一つだけフキノトウを見つけた
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