冬の間中、ピタリと閉められたままだった大方丈の扉という扉が全開にされている。
そうだな、ずいぶん暖かくなったものなと思いながら薄暗い方丈内に入り、適当な場所を選んで坐禅を始める。
室内の暗さに比べると、開け放たれた扉の外は朝の光に包まれて眩しいくらいに輝いている。
次から次に人がやって来て、黙って席について坐禅を組み始める。
室内と外は一体化して、光と共に流れ込んでくる空気は清明そのもので、まさに清新明暢。
そうたやすいことでもないのだが、坐っている間中は呼吸している自分の様子を自身で見つめることに集中する。
すると聞くでもなしに、ウグイスの澄み切った鳴き声が境内のあちらこちらから聞こえて来ていることに気付き、それがやがて谷渡りに入ると思わず「おぉ、お上手お上手」と心の中で喝さいを送る自分に気付く。
池の蛙たちもゲコゲコとウグイスに呼応しているかのようで、方丈内の静寂とは裏腹に如何にも賑やかである。
新緑色に染まった薫風と呼んでも差し支えない風が時折室内にも届き、頬をなでてゆく。
素晴らしい季節になったものだ。
冬の間は横田南嶺管長の話を聞きながら、一方では寒さと闘わなければいけなかった。
歯の根が合わないようなこともあって、そんな中ではさすがに集中力も途切れがちだったのは否定しない。
しかし、この季節になるとそういう必要も心配もない。
腰骨をしっかり立て、背筋をピンと伸ばして坐り、耳を澄ましてさえいれば管長の声もウグイスやカエルの鳴き声も自由自在に聞くことができる。
こういう時は不思議と足はちっとも痛くならない。
横田管長の提唱は盤珪禅師が終わり、新しい禅師の語録に変わったが、初めて聞く名前で誰だったか忘れてしまった。
しかし、管長によれば語録の内容は盤珪禅師と同じで、言葉を違えただけの繰り返しだという。
禅に限らず説法というのは仏教だってキリスト教だってイスラム教だって、同じことを繰り返し繰り返し語って信者の骨身にしみ込ませるというのが相場のはずである。
勉強だって何だって繰り返しが重要なのだ。
険しい山中を行く集団があったそうだ。
高い尾根道でのどの渇きを覚えた一行が苦しみもがいている時、集団の中から一人が険しい崖を降りて傷だらけになりながら谷川から水を汲んで戻ってきた。
尾根道で待っていて、労せずして渇きを癒し、水のおいしさを味わって満足している人たちに向かって、集団の中の一人が水を汲んできてくれた人と同じ危険な目に遭い、苦しみを体験しないでどうして水の美味しさが分かるのだ、それで本当に乾きが癒えたと言えるのかと一喝する。
「苦行の果てに悟りを開いた人の教えに黙って従えばよいのだ、いやそれは違う、同じように苦しみもがいて悟りを開かなければだめだ」
管長いわく「臨済宗ではこの繰り返しなのです」。
昨日はこの話が耳に残った。
ボクは汲んできてもらった水を飲ませてもらって十分満足しているつもりだけどね。
新緑が輝き始めた=円覚寺居士林
白鹿洞の脇ではムラサキハナナが終わりかけ、シャガがとってかわりつつある
黄梅院ではフジが咲き始めた