掛け布団が暑くて、蹴飛ばしこそしなかったものの、布団から手足を出して寝ていたほどである。
ベランダへのガラス戸を開けてみると、予報通り小雨が降っているが南寄りの風が強く、空気がモア~っと生温かい。
冬の間中お世話になった長ズボンも長そでの下着もうっとおしいくらいだ。
気が早いかもしれないが、昼間は確実に20度を越しそうだから、短パンに半袖シャツで十分そうである。
昨日午前中に七里ガ浜の国道134号を車で通ったら、中年過ぎのおっさんが短パンに長袖のTシャツ姿で浜辺を歩いているのを見かけ、先を越されたなと悔しく思ったものである。
太陽の出具合によっては25度に迫るかもしれない。
しかし、月曜日は再び真冬の寒さに戻るというから、春を飛び越して、つかの間の“初夏”ということだろう。
まぁ、日本の情感あふれる季節を味わうには、気温の変化も徐々に徐々にと推移して行くのが望ましい。
急いては事をし損じるの例えもある。一足飛びはよろしくないのだ。
さて、古今集から紀貫之の歌を一首。
春たちける日よめる
袖ひぢてむすびし水のこほれるを 春立つけふの風やとくらむ
立春は過ぎたばかりである。大岡信によれば、この歌の主役は当時の人々にとってはまだ新鮮な舶来知識だった暦の知識なんだそうだ。
「袖ひぢて」の「ひぢて」はぬらして。「むすびし水」の「むすぶ」は水をすくうこと。
「袖ひぢてむすびし水の」と言っているのはいつのころを指しているのかといえば、去年の夏、水辺で納涼した時の思い出を指しているんだそうな。
その折にぬらした袖の水が、秋を経て冬になって凍ってしまった。(もちろん心象の中で凍った水)
が、その水も今日立春には東から吹いてくる春風にとけてゆくであろうか、というのだから、いわばこの一首の中には、夏から秋、冬という季節のめぐりがうたわれていることになる。
現実にとけるのは冬の氷だが、その氷の中には夏の思い出がとじこめられている。この歌で春風が解き放ってくれるものは、凍った水だけでなく、その氷にまつわって思い出されてくる去年の楽しかった夏の行楽の日々でもあり、具体的な思い出と新たな知識が結びついて、そこに春の到来を喜ぶ季節感が浮き上がってきている歌なのである、と解説している。
なるほどねぇ。そう解説されると、なかなか素晴らしい一首でありますなあぁ。
今朝吹き始めている強い風は、おそらく「春一番」と呼ばれるんだろうけれど、紀貫之が感じた風の穏やかさとは違った、発達した低気圧がもたらす一種“強制的”あるいは“暴力的”といっても良いくらいの風なんだと思う。
しかし、それでも真冬の西高東低の気圧配置が崩れるが故の、春に向かっているからこその低気圧の動きによるものだから、確実に春本番への一里塚を通っているのである。
スノードロップとフクジュソウの競演=横浜イングリッシュガーデン
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