平方録

「心の欲するままに…」 えっ、いいの?

七十而従心所欲 不踰矩

七十にして心の欲するところに従って矩(のり)を踰(こ)えず

孔子の論語の中に出てくる言葉。論語の中で年齢の節目に応じて抱くべき心構えや到達すべき目標を示している。
「子曰く 吾十有五にして学に志す 三十にして立つ 四十にして惑わず 五十にして天命を知る 六十にして耳順(した)がう 七十にして……」
というわけなのだ。

七十より先がないのは、この年齢に達する者が往時は稀であったから敢えて指し示す必要もなかったのだと思われる。
その「古希」という古来稀なる年齢に今日達した。
もっとも孔子の時代は稀であっても、現代において「稀」の基準線は100歳あたりまで伸びているから、石を投げればぶつかってコキんコキんと音がするはずである。

この「心の欲するところに従って矩を踰えず」ってやつだが、意味するところは「70歳になったら自分の心のままに行動しても人の道を踏み外すことがなくなった」ということのようである。
つまり好き勝手にふるまったとしても自分自身の心にも、あるいは人さまに対してだって恥じたり迷惑がられるような行動には結びつかないのだと言っている。
う~ん そうかなぁ~? と眉に唾する気持ちがないといえばウソになるが、まぁせいぜい自分自身としては身勝手で嫌味なジジイだと言われないように気をつけて行こうとは思う。

ん? もしかして、こういう心理状態を指して孔子サマは「矩を踰えず」と言ったのかしらん。術中にはまったか?
そうだとしても、既に随分早い時期から「心の欲するところに従って」生きてきたのだから何をかいわんやではないか。

来し方を振り返れば、幸運にも望んだ仕事に就くことが出来、その分家庭を顧みる余裕もあらばこそ寝食も忘れて仕事に没頭し、気付いてみれば責任を負った立場で大病が発覚し、ここでも幸運なことに8時間の手術を経て生還し今に至っている。
あの50代始めの年は天の神様に「せめて還暦まで生き永らえさせてください」と念じたのだった。

そのカイがあったのか、オマエサンは「 ♪ 村のはずれの船頭さん ♪ 」だからなと言われ、そうか「 ♪ 今年六十の〇〇〇さん ♪ 」なんだなぁと感慨に浸ったものだ。
もっとも60歳がお爺さん? このボクが? という感覚で、実感には程遠かったが、それがたかだか4、5日前くらいの感覚である。光陰矢の如し。スピード違反だ。
あの大病の淵でふとめぐり会ったのが金剛経の「應無所住而生其心」という一節。オウムショジュウニショウゴシンと読む。

「これが自分の境地だと腰を据えておさまる心がなくして、与えられたる所に従って生き、̪̪然かあるがままの時に即して振る舞う」
何事かに執着するのでなく、望むことも望まないことも、変化にはその代わりざまを現実として受け入れ、そこに喜びや楽しみを見出しながら自由に生きていくというような意味である。
とらわれる心を捨て自然で自由にふるまえれば……そうなればよくぞこの世に生まれけり、ってことになるはずだ。人生の達人ってわけである。
狙いはそこだナ。



北鎌倉駅に電車が着かないと早朝の円覚寺総門は人影もなくひっそりしている=22日午前8時過ぎ


昨日は風がそよとも吹かず、山に囲まれた境内は目ぼしい花もなく、蒸し風呂のように暑かった=黄梅院


暑いことは暑いのだが、坐禅を始めれば暑さを感じなくなるところが不思議=黄梅院
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