坐禅の「坐」という文字は土の上に2人の人がいることを現しています。
1人は感情のままに流され、欲望のままに振り回される自分です。
そして弱い自分を冷静に見つめているもう1人の自分がいる。
そのもう1人の自分に出会うための修行が坐禅なのです。
今年最初の坐禅会となった円覚寺の日曜説教坐禅会で、横田南嶺管長の口から漏れた言葉が心の奥底にしみ込んでくる。
なるほどなぁ。
悟りとやらが開けるのなら開いてみたい、いや、そんな大それたものでなくとも、それに近いような境地というものはないんだろうか…
そんな漠然とした気持ちを抱いたのが今から54年前の高校3年生の夏だった。
坐禅に興味を持つ在家の人間を受け入れてくれていた円覚寺居士林の門戸を叩き、10日ほど寝起きさせてもらって朝から晩まで坐禅三昧の生活を送った。
そこで思ったのは「あぁ、一生こういう修行生活を送るってのもアリだなぁ」。
そう思いつつ山を下りたが最後、ケロッと忘れて自己統制の効かない欲望渦巻く生活にどっぷりつかって幾星霜。
ふと我に返ったのが、いよいよ労働市場から身を引くことになり、「さぁこれからどうする」と夢から覚めたのが、再び山に戻るきっかけだった。
確かに来し方、ボクは土の上にたった1人で大胡坐をかきながら得意顔をして坐っていた。
もう1人のボクがいるなんてことは思いもよらなかったことである。
最近それを若干だが意識するようになってきていた。
というのも、毎回、横田老師の話を聞いてきて、何となく雑念にまみれ、欲望のままにさまよう自分を客観的に眺めるという事の真似事のような感じが出来始めてきていたのだ。
そういう新たな境地というか、心境が生まれつつあったのだ。
坐という文字の中に坐っている2人…という法話を聞いて「あぁ、そういうことだったのか」と。
実をいうと、このもう一人の自分を客観的に見つめるという行為は案外面白くて、わが身のことながら楽しませてもらっている。
今日はどんな生身の自分に会えるのか、何に身を焦がし、身悶えしている自分がいるのか…などなど。
人間観察ってところか。それももっとも身近な自分を対象に。
しばらくこの境地に浸っていたいと思っている。
そんな思いを抱きつつ、坐禅が終わり大方丈を後にしてみれば仏殿脇の白梅がすでにほころび始めている。
今年の佐保姫様は着物の裾を端折って飛び出す気配のようである。
円覚寺仏殿を気の白梅がもうほころび始めている !
(見出し写真も)
境内最奥部の黄梅院ではミツマタがここまで
龍隠庵のシデコブシの花芽
居士林の庭のフクジュソウも間もなくだ