平方録

「鍋」にしみじみ思うこと

ここのところの寒波襲来で、夕飯を2日続けて「鍋」にしてもらった。
冷え切った体を内側からも温めようという寸法である。
一昨日が「カキ鍋」、続いて昨日は「鳥つくねとネギの鍋」。

わが家の鍋は味が濃くないのが特徴と言えば特徴である。
例えばカキ鍋。ポピュラーなのは鍋のふちに味噌を土手のように盛り上げて、少しずつ溶かしながら食べる土手鍋だが、わが家ではやらない。
わが家では昆布でだしを取ったところにマイタケやシイタケ、シメシなど、たっぷりのキノコをいれ、ネギや豆腐と共にカキを加える。
いわばキノコ鍋にカキを加えたようなものなのだ。
おまけに、醤油も化学調味料なども一切使わないから、素材だけで味を出しているのである。

そんなものがうまいのかと問われれば「食ってみろ」としか言いようがない。
そもそも耳には絶対音感というものがあるが、舌が判別できるのは甘いとか苦いとか大雑把な相対的なもので、その甘さが糖度いくつの甘さかなんぞは判別出来っこない。
ゆえに味覚は個人の生まれや育ち、日常口にする食べ物に左右される曖昧なものなのである。とどのつまりは食べる人にとってどうなのかということで、とりあえずは十分なのである。

味噌を使わないこの鍋のミソは昆布とキノコからにじみ出るエキスに海のミルクといわれるカキのエキスが混じり合ったところにある。
これをポン酢につけたりして食べる方法もあるのかもしれないが、私は鍋からすくった汁につけて食べるだけである。時として、そこに煎り酒1、2滴か、あればレモンとかユズを数滴絞って入れるが、つまり、素材からにじみ出るままを口に運んでいるのである。
できるだけ人工の味を遠ざけて食べるのだ。

そして最後に残った汁が濃厚で、これにご飯を加えておじやにすると絶品である。
結局このおじやを目当てにしていると言ってもいいかもしれない。わざと焦がしたりして、そのお焦げもたまらないのだ。

昨日の鳥のつみれとネギの鍋は鳥のひき肉にシイタケとレンコンのみじん切りを混ぜ、日本酒と塩、コショウを加えて団子にし、このつくねをゆでた汁を裏ごしした中にまた日本酒、みりん、薄口醤油、ごま油を適量入れ、つくねと焼きネギ、ひも状に削ったダイコン、ミズナを加えただけのシンプルなものである。
3センチほどにぶつ切りした焼きネギを大量に入れるところもポイントかもしれない。昨夜はミズナの代わりにハクサイを使った。
卓上に置いたコンロに掛けて熱々を食べる。これもさっぱりとした健康的な鍋である。

最後に細めの生ラーメンを入れると、麺に出汁が絡まって、これまた絶品なのだが、昨夜は生ラーメンがなく、インスタントラーメンの麺で代用してみたが、あれはいけない。
インスタントラーメンにはかんすいや化学調味料などが加わっているためか、何か雑身を感じてしまい、それぞれの食材が持つ「素」の味だけで作り上げた素朴で柔らかく絶妙な味加減がぶち壊しにされてしまった。
加工食品の普段は気づかない側面が、「自然のまま」という素材の集まりの中で、図らずもあぶりだされたといえようか。
思えば恐ろしい話である。



近所の自然公園にマユミが実をたくさんつけたまま陽を浴びている。今朝の鎌倉の気温は-1・5度。3日続きの冬日である。
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